エミイル 第一編(幼年期総論)

第一編(幼年期総論)

○何んな物でも自然と云ふ造物主の手から出る時は善いが、人の手に託せられると悪くなる。人は何一つ自然が造つた儘にしては置かない。其の子供は園の植木を見るやうに思ふ存分に曲げられ撓められて了ふ。だからと云つてその儘に棄て置けば万事もつと悪くなる。それで私は世の中の慈愛と思慮とに富んだ母親の方々に社会の境遇と云ふものに、あなたの若木が踏み砕かれないやうに気を附けて下さるやうにお願ひする。すればいつかはその樹の収穫が、あなた方の努力に十分報いて呉れる。

 

○抑々、我等の産れ落ちた時は羸弱であり、無一物である。だから我等は強められ助けられなくてはならない。然るに吾々を強め吾々を助けるものは教育より外にはない。さて、此の教育は、天性、人為、事物三者の力を借りなければならぬ。即、能力機関の内部的発達は天性教育で、能力諸機関の発達を応用するのは人為教育で各々その個人的経験から得る処のものは事物教育である。此の三種の教育が統一されて同一目的を追求する人は真に教育されたる人である。以上三種の教育の中天性教育は人力の如何ともする事の出来ないものだが、事物教育は人の為なければならぬものゝまた為し能ふ事である。

 

○さて教育とは「天性に従ふ」事である。吾等には生れながらに感覚がある。吾々が快不快を意識するやうになると、まづ快楽を求め、不快を避けようとする。遂には理性の与ふる幸福とか善とかいふ観念のもとに事物を判断し、或は求め或は避ける様になる此の傾向が習慣に縛られる時は多少の変化を来す。此の変化のまだ生じない時の傾向を天性と名づけよう。教育は万事此の天性に適ふやうにされなければならない。ところが人をその人のために教育しないで、他人に都合のよいやうに教育しようと思へばどうしたらよからう。茲に至つて天性に抗つて公民を造るか、社会に抗つて人を造るか、二者其の一つを選ばなくてはならぬこととなる。自然その儘の人は自分の為に存在する。彼は数の単位である全体であるが、公民は分数的単位で其の価値は社会組織と云ふ全体との関係で定まるのである。斯くして人間をつくる教育と、国民をつくる教育と、此の二箇の矛盾した教育系統から、二個の相反した教育の目的が出来る。即ち一は公衆的公共的で、一は箇人的家族的である。然るに今や国家的教育といふものがない。一の国家といものも成り立たない以上は国民といふものは成り立たない。国家と国民性の二語は近代の言葉から除去して仕舞ふ必要がある。

 

○世間には学校といふ設けがあるが、此れは矛盾する二箇の目的を追求して、遂に何物をも得る事の出来ない制度である。そこでは始終無駄骨折をする偽善の人物が造り出される。もしもこの二重の目的が一個人の上に何等の矛盾も無くして適応されるならば、人間の幸福の大障害物は取除かれるに違ひない。その二重の目的とは箇人と国民とである。這麼人が居るか居ないかを知るには、完全に成長した人を見て、それを観察しなければならない。一言もつて云へば天性の人を知らなくてはならぬ。読者諸君が此の書を読んで下さつたら幾分かお悟りになるであらうと思ふ。

 

○然らば這麼天性の人物を養成するには何したらよからうか。まづ最初に何事でも他人から為て貰ふ習償を禁ずる事が肝腎である。それから人は銘々定つた社会上の身分があつて、其の身分相応な教育を受けなければならぬと云ふが、埃及の様に子は親の職業を継がねばならぬと云ふ国ならば兎も角、社会の階級だけは永続しながら、常に人々の職業の変動する我々の国では身分相応の教育は却つて子供の本望に逆つたやりかたである。何事でも自然の秩序から観察すると、人は皆平等で、各人共通の職業は先づ人間たる事である。吾々の真に研究しなければならぬのは人生であつて。人生の幸福と辛酸とは如何にして処すべきかを知つた人が最もよく教育されたる人と云ふべきである。だから此の目的を以て善良に教育された人は何を遣つても遣れない事はない。だから真の教育は教へるといふ事よりもむしろ訓練する事である。吾等は全局に目を注いで児童を人生のあらゆる事件に遭遇する人として育てねばならない。経験に依ると、あまやかし可愛がられて育つた子供は、さうでない子供より多く死ぬやうである。苦痛は人間の運命である。苦痛に会はせまいとして、何麼事をしても駄目である。大切なのは強健なる精神でなくてはならない。

 

○子供は生れると泣く。すると諸君は撫でたり賺したりする。然しまた嚇したり打つたりする事もある。かうして諸君は子供を喜ばせるかと思ふと、時には自分勝手な事をする。ともかくも諸君のする事は子供に従ふか、子供を従はせるか何つちかである。子供は未だ口も利けないうちに命令し、未た実行する事も出来ないのに服従させられる。時には罪なくして罰せられる事すらある。世間には這麼事で子供を偏屈者にした上で、「困つた息子が」と云つてゐる親がある。さうかと思ふと「私は忙しい。子供の相手なんぞになる隙がない」と云ふ人がある。併し親たるものの最も大切な義務は専ら子供の教育である。唯子供に食はしたり着せたるするばかりでは、どうしてもまだ親たる任務の三分の一も尽されては居ない。親たるものは人類に対して人を預り、社会に対して社会の人を預り、国家に対して其の国民を預つてゐるので。自分一個の子供ではないのである。此の三つの責任を果すことの出来ないものは罪人である。しかも此責任を半ば尽して半ば放棄するものはもつと甚しい罪人である。親たるだけの責任を果す事の出来無い者に親たるの権利はない。その故に教師たるものは立派な人で無ければならない。真に人を教育するには其の人が先づ親とならなければならないからである。凡そ親たる人が教師の如何なるものであるかを知つたら、自らその教師にならないでは居られまい。ところが茲に富有な人があつて業務多忙のため、子供の世話が到底出来ないとすればどうであらう。金を出して自分の義務を人に託してよいであらうか。斯くして託せられたる子供は果して第一義の教育を受ける事が出来ようか。どんな人か知らない、只地位ばかり分つてゐるが、私に子供の教育をやつて呉れとて頼んだ人があるが、私は其を承諾しなかつた。何故と云ふに若し私が承諾して私の考へ通りに行かなかつたら其の教育は失敗であり、若し成功した時は、其の子は爵位を棄てゝ更に公爵にならうとしないに相違ないからである。実に教育者たるの任務は重大であつて、私の様なものはとても其の器ではない。むしろ私はここに一人の児童を描写して、其誕生から成長するまでの教育法を書かうと思ふ。

 

○偖、子供を教ふる学問は人類義務の学問である。其の教師は寧ろ教育家と云ふがよい。何故かと云へば、彼は生徒に教ふるよりもまづ生徒を導くものである。貧者教育の必要はない。貧者は既に其境遇から一の教育を受けて他の教育を受ける事が出来ないからである。然し富者が境遇から受ける教育は自分にも亦社会にも其の利する処は少ない。云ふまでもなく自然教育は、人をして人生のあらゆる境遇に堪へる様にするのである。貧乏人を富者にしようとする教育は富者を貧乏人にしようとするよりも、もつと不合理である。貧窮に赴く者の数は、貧窮から身を起す者の数より多いからである。そこで私は今富者の中から一人の生徒を選んで之を教育し陶治して見ようと思ふ。

 

○それはエミイルである。エミイルは良家の小児である。私は将に偏見の犠牲とならうとするものを一人救つて見よう。

 

○エミイルは孤児である。彼に両親があらうとあるまいと其麼事は問題では無い。今や両親の義務は尽く私に託せられその権利は私が握つてゐる。エミイルが両親を敬まはなくてはならないけれ共、私の外には誰にも服従する必要はない。此れは第一の寧ろ唯一の条件である。此の他にも猶一つの条件がある。其はお互の承諾無しには決して別れまいと云ふ事である。相互に別れたいと思ひ、他人になつて仕舞ひたいと思ふ瞬間には、もう二人は既に他人になりはて、親愛の情は無くなつてゐる。

 

○私は羸弱な病身な子供を預る事は嫌ひである。さういふ病身な子供は只生きよう〳〵と努めるばかりで、其の肉体は精神教育の妨げとなるばかりである。只死なない事ばかりを考へて居るものに生くべき道を教へる必要はない。真の勇者は医者の居ない処にゐる。死といふ事の考へられない処にゐる。自然な状態にゐる人はいつも苦痛に堪へ不安に死ぬる事が出来る。人の心を凹ませて死に迷はせるのは医者と学者と坊主である。エミイルには命の危い様な場合でなければ医者を呼ばない。さうでないと反つてエミイルを殺すに過ぎないからである。

 

○子供には度々湯浴をつかはせなくてはならぬ、身体が強くなるにつれて湯の温度を低くし、夏も冬も冷永浴をやらせるのがよい。斯くして様々な温度の水や湯に堪へる様にさせて置くと外気の変化を感じない程丈夫になる。紐や襁褓で子供を緊めて手足の運動を妨げない様に、いつもゆつたりと着物を着せるのがよい。然しあまり沢山着物を着せては不可ない。寒い空気は子供を強くするけれども暖かい空気は子供を弱らせる。子供が物を見分ける様になつたら、之を与ふるものを選ばなければならない。新しい物を喜ぶのは人の天性である。然し、子供は自分の知らない物を恐るゝ感覚を持つて居る。そこで子供には新しいものを見る事に慣れさせてやりたい。始終見てゐると物の怖ろしさは消え失せる。若しエミイルを爆発の音に慣らしてやらうとするならば、先づピストルに麻屑でもつめ込んで弱く試みる。そして後には麻屑を入れないで少しの弾薬を入れ段々多くして、どんな爆声にも慣らす様にする。子供は或る逃れられないものに遭遇して不安の念を起し、他人の助力を仰がねばならぬ時は表情で之を現はす。泣くのは則ち其の所以である。斯かる涙は願である。それを心得て置かないと、願は命令となつて了ふ。子供の力が弱いために初めは人に頼まうとするが、やがて指揮命令の観念が起つて来る。斯かる観念はあまりにかしづくから起るのであつて、其の他にもかくして天性でない不道徳が屡々顕はれてくる。

 

○子供が四辺の人を自分の小使か道具の様に使ひ廻す様になると、どうにも斯うにも手が附けられなくなる。然しこれは教育の仕方が悪いのであつて、自然其の儘の権威ある心から出て来るのではない。此の原理を知つて置くと、自然の秩序を誤る事がない。左にその原理を示してみると、

 

○一、子供は余分の力を持たないばかりか、自然の要求さへ其の力で満す事は出来ないから、其の凡ての力は充分使はせた方がいい。

 

○二、子供が智慧でも力でも生理上の要求を満すに足らない時は助けてやらねばならない。

 

○三、有益な事でなければ助力してやつてはいけない。一時の出来心や、よくない要求を許してやつてはいけない。

 

○四、子供の欲求が自然か出来心であるかを知るためにその言語や、欲求の表象を研究しなければならぬ。

 

○此の法則によつて、子供の時からその欲求を力の範囲内に制限する様にして置けば、力の及ばぬ事を欲して自ら苦しむ様な事がなくなる。子供が束縛されもせず、又病気でもなく、何の要求もないのに声を長く引つ張つて泣くのは、習慣又は気儘の叫びである。此習慣を治したり防いだりする唯一の良法は泣いても知らぬ振をするのがよい。又子供が一時の出来心や気儘な心から泣くのを防ぐ他の方法は面白い珍しいものに気を向け変へさせる事である。今や世は万事質朴の風廃れて其の弊害は子供の玩具にまで及んでゐる黄金の鈴や、銀の鈴や、珊瑚や、水晶や、種々様々な玩具それらはいかに無益有害であらう。それを皆放げ棄てゝ、花ある小枝、がらがらの様な罌粟の坊主を与へたい。子供は産れた時から言葉を聞かされる、吾々は子供が言葉を解しないから話し掛ける、子供が其の音声を出して真似も出来ない時から話し掛ける。其の他、其の音声の外、何にも分らない歌を無暗に教へられる。然しまだ年に似合はぬ言葉を使はせられるのは大変よくない。世間には自ら言葉を覚ゆることの出来ない子供はあるまいのに、わざと教へねば覚えないもののやうに余り急いでいろんな事を教へ、遂に子供の発音を不明瞭にして了うやうな大弊害を生ずることが往々である。すべて言語について吾々が子供の為めに懼るゝ欠点は決して八釜しいものではなく、容易に禁止したり矯正したりする事が出来る。けれども其の音調を批評したり、其の言語をとりいだして軽侮したりして不明瞭なうろたへたおろおろ声で語る様にさせた欠点は遂に改むる事が出来ない。子供が言葉を稽古する時には只解る言葉ばかりを聞き取り、明かに発音の出来る言葉ばかりを語らせる様にさせなくてはならない。子供には唯必要なものばかりを教へてやればいい。子供が云ひかゝつて口籠る時はその云はうとする所を推測して此方から云つてやつてはならない。子供は自分の実益上人から習はなくても自ら覚えるものである。子供には出来るだけ用語の数を少なくしなければならぬ。観念以外の事を知つたり、自分の思考の及ばない事を語るのは、子供にとつて大変損な事である。小児期最初の発達は殆ど同時に起る。子供は殆ど同時に語つたり食べたり歩いたりする事を覚える、これが即ち一生の第一期である。是れ以前は生前と大差が無い感情も無ければ観念もなく、只僅かに感覚を有してゐるのみで、自己の存在をも意識してはゐないのである。