第二編 五歳から十二歳まで(体育、経験、官覚的教育)
○幼年期は既に終りを告げて、今や人生の第二期とはなつた。子供が物を云ふ様に
なると泣く事が少くなるのは自然の勢で、茲に初めて子供の情意を表はす用語が変
つて来る。然し、猶此の年になつても泣く子供があつたなら、それは教育者が悪い
のである。エミイルは決して泣かない。彼は痛い時には只「痛い痛い」と云ふばか
りである。若し子供が転んで頭を打つたり鼻血を出したり、指先を切つたりする様
な事があつた場合には、すぐと駆けつけないで、暫くなりと動かないで居なければ
ならぬ。子供が怪我をした時には、此方の挙動一つで思ふ通りになるので些少の苦
痛に打勝ち猶進んで大なる苦痛に堪へ得る様な勇気は、此の時代に於て養はれる。
エミイルは怪我をしなければならない。私は決してエミイルが怪我をしない様にと
願はない。馬塵に高い処に坐らせたり、火の側に一人置いたり、何か危険物の処に
居らしたりすれば兎も角、私は自由にされてゐる場合の子供が、自ら死んだり腕を
切つたり落したり大怪我をやつたりしたと云ふ話を聞いた事がない。子供は力をね
すと共に他に訴へる必要がなくなり、自から助くる力が増すに連れて、他人に助け
らるゝ必要も少くなる。且つ体力が増して来れば従つて其を指揮する知識も発達し
て来る。だから個人生活の初まるのも此の第二期である。此の時代に於て始めて自
分に関する知識を得、何彼につけて自已と云ふ感じを起し、已も亦一個人だとい・
目覚が出来、困難に堪へ、幸福に処して行かうとする。斯うなつて初て子供は道徳
的であるといふ事が出来る。人の生涯は大抵限があるが定められぬは人生である。
人はいつ死ぬものか分らない。多く見積つた処で、此の年齢まで生き延ひる子供は
・全数の半分しかあるまい。だから吾々は現在を不定の未来の犠牲に供する世の残融
な教育をどう批評したらよいか分らない。其の喜ばしい時代は、〓や、〓戒や、
嚇や奴練的生活の中に過ぎ去るのである。これも子供の為に善かれと思つてるる
であらうが、実は知らず??の間に死に近づけて行く。あゝ教師は真情を尽さねば
ならない。真情を離れて智慧はない。子供は勝手気儘に遊ばせよ。その嬉々たる本
能を発揮させよ。子供の与へられたる束の間の喜びを奪ひ取つて永き恨を遺すな
そしたら彼等は何時死の神に召されても、人生の喜びを味つて死ぬる事が出来るの
である。子供を教育するには専ら実物に依り自然の秩序に従はねばならない。悪い
事をするなと規則立をせず、悪い事をしたら、其の時止めさせる。強いて規則立て
しなくても、其の経験と力の欠乏とは自ら子供の規則となる。彼等の身体を強壮に
し且つ共の成長を促がすところの自然力に逆つた事をしてはならない。子供は飛び
たい時には、飛ばせ、駆けたい時には駆けさせ、叫びたい時には叫ばした方がよい。
微等に対してあまり厳しいのと余り寛大なのとは、いづれも共に避けねはならぬ事
余り厳しくして苦しめたなら、其の健康や生命を危くするが、又た余りに大切に仕
〓ぎると、却つて権弱となり感覚は鋭数になり、
〓らろるをり感覚は発になり、遂には多くの不幸を積み真
あきを目然から来苔前に遺はせまいとすれば自然の筒な
好し加へてやることとなる。自然から総れたに真の幸編の前
答音痛にも会はせまいとするのは自然の幸福に離れさもるみしあるの
路界は番君の子供を不幸に警く方法を知つて居られるかりし
〓得せる禁にすれば、必ず不幸者になる。共の欲望は満せば満す程
遂には見るもの恐く欲しくなるなる。の欲望は満せば満す程増長して
に見るもの番く欲くなる、が神ならぬ身の何うして之を満事来。
云がまでもく、子供は称いから様々な東勅を受けて居る。然るに吾
ゃりして居る処からと様々な東縛を受けて居る。然るに吾々の考のぽ
ななて居る処から共の上にまだ多くの東耕を加へてるといふは
はあるまいか。人は理性の時代になれば必ずや社会の東転を〓るのを出業
そこそとそのになれば必ずや社会の東縛を受けるのである。何五
〓かしまとの東の手を早めるのであら。子仲を奴様の様にゑ新
ドがては東縛せられる子供である。暫くなりと教の様に取抜ふ親である
「がては東〓せれる子俵でる驚くなりとその若は自然あ
方がよい。
ロツクは子供と議論して理窟づくめで教育せよと云つた。是れは今日主として探
用せられてゐるところのものである。けれ共その成功は覚束ないであらう。理窟。
くめで育つた子供程馬鹿なものはない。云ふまでもなく理窟は他の凡ての能力の〓
合体であつて、其の発達は最も遅い。然るに之を一番先に発達させようとする。若
し子供が合理的であり得るならば、少しも教育する必要はない。子供は善悪を論じ
人間の義務の理由を解すべきものではない。殊に服従の義務である事を生徒に信ぜ
させようとしたり、又約束させようとしたりするが、こんな風にせられると子供は
輩つてさも理性に訴へてした様に見せかける様になる、子供はまだ義務の観念が務
達して居ないから、義務の何物であるかを知らせる事は出来ない。感じもしない義
務を負はせると子供は褒められる為にも、罰を逃れる為にも、不正直、詐偽、不誠
質な事をする様になり、遂に其れが習慣となつて表裏ある人間となり終るであらう。
さて、教育と云ふものが世界に初まつて以来、競争、猪忌、〓拓、虚栄、貪望
賤しい恐怖より外にまだ是れといふ程のものをも、案出する事の出来ない事は不可
思議な次窮である。ところが此の競争とか、猜忌とか、嫉妬とか、虚栄とか食望
が、恐怖とかいふものは、極めて危険であつて、まだ身体の出来上つて居ない子
の精神を、激しく酵隠させ腐敗させる。幼い頭に這入つて行く斯かる早熟的な教
は、子供の心の奥底に悪業を植ゑつける計である。又子供は経験ばかりで教育を
くべきものであつて、言葉でいろんな事を教はつてはならぬ。子供は過失のどんか
ものであるかを知らぬから、罰を科する事は出来ない。子供はまだ道徳に対する意
識がないから、道徳的の悪をする事は出来ない。だから叱つたり罰したりする事は
出来ないのである。
一体、人の一生で最も危険な時代は、誕生から十二歳までゞあつて、此の間に場
がく罪悪は萌すのである。一度萌したら、とても、打ち尊す事は出来ないのである
そこで最初の教育は全く消極的でなければならぬ。道徳や真理を教ふるよりも悪ぶ
誤りに陥らない様に心意を制限するのである。何も覚えず、又何も教へてやらなく
てもよい。たとへ十二歳まで左右の見わけが出来なくても差し支はない。唯丈夫で
さへあれば、子供は立派に理解力が働いて来るのである。だから現代の教育法と正
反対の途をとれば殆んど誤りは無いのである。
勿論教育は合理的でなくてはならない。然し子供と議論してはならぬ。彼等が意
見の価値を判断する力の無い間は、諸君の意見を知らしてはならない。人の心には
各々其の特性がある。だからまづ其の特性を観破しなければならない。即ち人を教
育するには、必ずその特性に従はなければならないからである。さて其の特性を知
るには只々子供の性格の自然に萌す有様に任せて、全然自由にして置かねばならぬ
斯くして自由に放任するのは、一見、時間を徒費するやうに思はれ易いが、実はよ
り善く時間を費すものである。幼少の時には時間など惜まずにうんと遊ばせた方が
よい。
人を陶治しようとならば、自身から先づ人とならなければならぬ。先づ人に宣言
する丈の模範を持ち人々の尊敬を受け、人々に愛せられる様になつて置けば、人は
皆諸君の思つた様になるのである。此方が心を開かねば相手も亦決して心をあか〓
ものでない。吾々の与へねばならぬものは金ではなくして親切であり愛情である
亡寧ろ吾等自身である。これ即私がエミイルを田舎で教育する理由である。田舎に
は子供を惑はし、子供に害毒を与ふる虚飾がない。田舎では思ふ存分に児童を動か
す事が出来る。且つ赤裸々な農民の話や模範は、都で得られない権威を持つてゐる
看し田舎で悪業の矯正が出来なかつたとしても、誘惑か無いだけでも結構である
僕はどんな生徒を預かつても実際的の教援をするであらう。物知をつくるよりよ
善人をつくるであらう。僕は誠を云へと生徒に迫らない。迫ると隠すおそれがあヲ
からである。又実行の出来ない約束はしない。若し、私の留守中に何か失策でもま
つてそれは誰のした事とも分らない時にも、エミイルを責めたり、「お前が為たん
やないか」と云はない。斯う云へばエこイルは否と云ふに定つてゐる。エミイルが
自分から是非或る約束をしようとする時は、其の申出を此方から出さないでエこ
ルに出させる。するとエミイルは其の約束を果した時には、一〓の与味を感じ、其
を破約した時には悪結果の身に及ぶを知るであらう。併しかうまでしなくとも。エ
ミイルはもつと大きくなるまでは詐の何物なるかを知らない。私がエミイルを人の
意志判断に頼らせない様にすればする程、彼は詐をいふ事が面白くない。
とかく利口な子供は馬鹿の様に見える。けれども子供の時の真の馬鹿者と馬鹿の
様に見えてゐて、実は確かりした人物との区別は仲々六ケしい、不思議にも馬鹿と
天才は初めは似てゐる様に見える。然し馬鹿者は妄想の起るに任せ、天才は何か真
の観念を得る迄は考へず、又雑念妄想を起さない、馬鹿は何も出来ないから何も仕
ないのであつて、天才は何もする事が無いから仕ないのである。どつちも馬鹿にし
か見えないが、之を見わけるのは機会である。天才は機会さへあると何かハツト田
ひつくけれ共、馬鹿は何に遭つても呆然として居る。
だから子供を尊敬して、決して軽卒に善悪の評を下してはならない。子供を矯エ
しようとするには、先づ??気永く辛棒して、その性癖を充分よく明らかでなけ、
ばならないプラトウの『国家』は余り極端かも知れないが『子供は只祭日、遊戯、眼
歌娯楽の間に教育せよ』と云つてゐるのは同感する。子供を真に喜ばせる事が出専
ればもう何も彼も立派に成功したものと云つてもよい。
子供は判断する力がないから真の記憶力も無い。小児は音や形を感ずる事が出来
るけれども観念を得る事は無い。まして観念連合は猶更の事である。それは子供の
知識は感覚的であつて、決して深く理性に道入つたものでは無い。又記憶でも完み
なものでは無い。然し私は子供が何麦種類の推理もする事が出来ないと云ふのでい
ない。子供はよく知つてゐる事、目前の奥味ある事に関しては、よく判断する。は
欺れ易いのは彼等の知識に関する事である。吾等は子供が持ちもしない知
持つてゐると思つたり、子供に解りもしない事を考へさせたりする弊があ。「一
毒学は教育に無用なものだ」といつたら吃驚する者があるかも知れない、小
は初学者に就て云ふのだから怪しからぬ事は無い。神童で無い以上は、二歳乃
十五歳の子供が二ケ国の言葉と通じよう筈がない。
若し言語学が言葉の研究即ち、発表する音の研究であつたら、子供に亦や
てよいであらう。けれども言葉は其の表徴の異るに連れて、現はす処の親金も遂つ
しゐる。どんな学問でも云ひ表はした符合が、思想と一致してゐなければ駄目で
る。然るに子供は斯かる符合を教はつても、其の符合の下にある事物に就ては理解
する事が出来ない。吾々が子供に地球を教へてゐる積でも実際は地図を教へて
計である。吾等は都会や国々や河流の名を教へてるる積であるが、子供は只新の上
に書いたものだとしか思はない。
あ不適な事がある。共は歴史を学ばせられる事である。一体歴史とい
のは単に事実の集合に過ぎないから、子供にも解るものだと考へれふ
〓の進ずないから、子供にも解るものだと考へ易い。けれ共人
は此の事実といふ言葉を何う解してるるだらう。歴史上の事実をなるあの
〓う容易なものでは無い。又子供の頭ではそんなにやく歴夷
は出来い。然るに事物の原因結果をはなれぐにしてはのをへ事
歴史上の事件は道徳上の間期を等閉〓にては、事物の真相は解らな
解上の事件は道徳上の問題を等閉に附しては知らるべきもので
の問題も歴史上の事件を等閑にしては分らないものである。狩類の弓
究するにも、只外部的、
〓
るにる只外部的、総形町下の運動ばかり朝いだけでは歴史
があらう。斯ういふ研究には何の与味も盆もない。人の行為を道徳事塲のろし
〓よるとすならば、是等の関係を生徒に知らせなければもれ
史を教へて善いか悪いかが分つて来ようと思ふ。子供に只帝王や、帝
警や毎服や、英命や、法律等を口論させるのは容易であるが、それ伴
件はせるのはどんなに六ケしい事であらう。
若し自然が、子供の脳体に一切の印象を受け入れる丈の可能性を与へて居たとし
ても、其は、帝王、年代、絞章学、星学、地理等、子供にとつては無意義、不利盆
なもの計をつめ込んで幼い心を苦しめて、その精力を失はせる為では無い。子供の
柔い心で理解する事が出来、且つ有盆で、幸福の基となり、他日義務の観念を喚起
するだけの思想を刻みつけてやらねばならぬ。さうすれば彼は生涯、自分の身分才
能に応じて身を処しゆく事が出来るのである。
エミイルには何も請誦させない。昔噺でも無技巧な面白いう、フオンテエンの物
語でも教へない。訓戒的の寓話は面白いには面白いけれど有害である。子供は寓話
を聞いてもその真理を捉へようとはもず、面白く話せば話す程その真理は解らなく
なつてくる。子供は寓話を暁れはしない。兎に角私は凡てに偏見の多い学校教育か
ら子供を救ひ出したい。又子供を不幸に陥らせる書物を焼き棄てゝ仕舞ひたい。
〓ル十二歳になつたけれども未だ書物の何たるかを知らない。読むだけ
りと教へて置くがよいと云ふ人があるかも知れないが、私はその必要を感じない。
丁度其の年頃になるまで、読書は子供の心を毒する。それから請方教授法に就い下
は今まで種々の議論があつた。けれど何よりも確実な教授法があるのに其れ気
〓く人ない。共は即ち学ばうと思ふ欲望を起させる事である。与味こそ大なる
機であつて、確実に大きな結果を来すものである。吾がエミイルは歳になる迄
は立派に請み書きを覚えるに相違ない。けれ共私は十五歳になるまでは是等のもの
を顔いて教入ようとはしない。自然な有盆なものを失つて浅墓な智識を得させる上
りは寧ろ全く知らせない方がよいからである。
の生徒と云ふよりは寧ろ、自然児のエミイルには出来る限り早く自分の事は
分にやらせる様にする。他人に頼る習慣を附けさせない。直接自分に関係のある
なら、どこまでも自分で判断させ、又先見させ考へさせる様にする。エミイルは
〓鋳舌らないで実行する。彼は世間に何麼事が起つてもそんな事には少しも頓着せ
ず只自分のしなくてはならぬと思ふ事ばかりをする。エミイルは自然から学んで人
から学ばない。体格と智慧とは両立しない様に世間の人は思つて居るが、エミイル
は優等な智力と強健な体力を合せ持つてゐる。英雄豪傑と云はれる人はいつも此の
二者を供へてゐるものである。
自然的教育を受けてゐると、身体は盆々丈夫になり、心は愈々確かになり、又年
相応に理性が発達して一生涯の大幸福を得る事が出来る。自然的教育は吾等に力の
正しい用ゐ方を教へ、身体と四囲の事物との正しい関係を教へ、且力の許す限す、
体機の許す限り自然的の器を用ゐる事を教へて呉れる。斯くして学生は教場で学ぶ
よりは、学園で実際に学んだ方が一百倍の盆がある。
人間最初の研究は自己保存の為の実験物理学と云つてもよい。何故と云ふに、人
間最初の自然幽遅動は四囲の物で、自分を測り、知覚する所の物で自分の知覚性を
認むるからである。吾々の幼時に於ける哲学の先生は吾々自身の手であり、又足で
あり、目である。是等のものに代ふるに書籍を以つてするのは、人の理性を盗用ナ
る事を教ふるのである。
ずん??太つてゆく子供に著せる着物は手足ゆるやかにしてやらねばならお
い。又あまり頭巾を被ぶせないのがよい。けれ共髪を綺麗に整へる為には寐る時ば
かり頭巾を被ぶせてもよい。子供が段々成長してゆけば、其の筋肉繊維も亦強さ
増してゆく。それにつれて少しつゞ日光に抵抗する力を養つてゆくのがよい。段々
と其の度を進めて、遂には熱帯の炎熱にもよく堪へ得る様にしてやらねばならな〓
又、子供は身体の活動が甚だしいだけそれに適当する睡眠をしなければならぬ。瀬
動と睡眠とは共に助け合ふものである。自然の定める如く夜は休息の時である。〓
は太陽と共に寐起するのが、最も健康に適した習慣である。小さい時から、余り」
くない寝床にも慣れる必要がある。左様すればどんな寝床に寝ても気持の悪い事
ない様になる。枕をするが早いかグウ??寝込んで仕舞ふ人に取つては寝床が堅い
といふ事は無い。
私は時々エミイルをゆり起す。それは永く寝過ぎるのを怖れるからではなく、何
事にも慣れさせる為である。吾々は子供が水泳を習ふのを見て溺れはすまいかと
ふ怖れを抱く。併し習つて溺れるものも、習はないで濁れるのも全く一の失策であ
る。運動は危険を冒す事ではない。然し子供は危険に遭遇してもビクともしない様
に惜して置かねはならない。且、子供には子供相応な危険を冒させる様にして置ノ
と、他日危険に遭遇しても、之を防禦する事が出来る様になり、為に吾々は責任の
ある子供の保護を全うする事が出来る。子供には、夜中、様々な遊戯をさせるがよ
い。是は思つたよりは大切である。子供の心は夜になると自づと怖くなつて、理性
も智慧も才能も勇気も仲々、役に立たない。元来恐怖は其の原因が明らかになると
治るものである。何事でも慣れると想像は無くなる。想像力を刺戟するのは只新し
いものばかりである。だから暗闇を怖れる者を治してやるのには、何も理窟を云は
ないで屡々暗黒な所へ連れて行くのがよい。這〓実行は、ありとあらゆる哲学のま
論を聞くより何程よいか分らない。
人は不時の災難に対していつも準備して居なければならない。エミイルは気候の
如何を問はず毎朝裸足で庭園を駆け廻るのがよい。子供には輻飛をさせる。高飛も
〓せる。木にも登らせる。垣も飛び越えさせる。然しエミイルには決して舞踊はひ
らせない。私はエミイルをオペラの役者にするよりは、鹿狩の仲間にしたいと思
てゐる。
さて今までエミイルは室の装飾をしなかつたが、もう之からは欲しいものは皆
へてやる。先づエミイルが自分で描いた絵を額に入れて順序正しく掲げて置く。よ
ると『成程是れが初て描いた絵である』と思つて見る度に喜ぶ。私は其れ等の絵の内
で一番初めに描いた拙ないのを一番綺麗な金縁の額に入れてやつて、模倣が段々
くなり画法が盆々上手になるに連れて、単純な墨塗の額位なものに入れてやる。
其といふのは立派な画は、画其のものが一つの飾だから余り立派な額に飲める〓
つて其れに注意を奪はれるからである。
子供には幾何学は解らない。然し、之は大人の学ぶ様な幾何学が子供に解らな」
であつて、子供相応の力でやらせるとそれ程解らない事は無い。即ち推理的な教
へ方をせず、幾つかの正確な形を描いて之を結合し、之を重ね、そして其の間の〓
味を験べさせる様にすると、一の観察から、他の観察へと進んで、遂には初等幾何
学の全部が解つてくる。何も別に定義や、問題や、証明の必要はない。私はエ
ルに幾何学は教へないが、只発見する事が出来る様に、共の間の閣係を尋ぬるの
ある。
羽根遊びは、眼と腕とを正確にし、独薬遊びは腕力を養ふから結構な遊戯である。
の論子供は大人の上着を著る程の身体しか持たぬから、三尺高さのテイブルで大人
と森に玉笑株を弄ぶ事は出来ない。然し子供相趣に大人の遊銭もやらせた方が
い。羽根女の遊競である。一体女は余り手荒い遊戯をし皮骨を
〓ならぬ。けれども男子は危険を怖れないで強健に身体を錬へ上なくら
以められる事がなければ防禦力を養ふ事は出来ない。飛んで来る玉の吏力をしし
りけ返す梅遊は、子を淋為のので大人の差
何事でも子供の時にやらして置くとよく出来る様になる。子供がんしもい
程町みに製寂に四肢を紛かすのは、よく人の見る処である。から大んのを
る程の手際を持たぬと云はれない。子供に若し或る差戯が出来ないかせ
習しないからである。
習しないからである。込はれない。子供に若し或る遊戯が出来ないとならば其は
g敷の声がある。第一には談話の声、即ち発音の明瞭な声、第二には歌
農ら皆綱の声第三には感動的又は張り上た声であ子の
将つてるが、共の結合の仕方を知らない。而して完全な音とは是三種
り最もよく統一したものであるから、子供にはその声が出ない、従つて其の歌には
魂が籠らない。又其の話し声はアクセントを持たぬ。唯大きな声は出るが変調が用
ない。特にエミイルの言葉使は単調単純である。これはエミイルに未だ熱情がない
からである。
〓食は無為な人間の悪癖である。無為な人間の魂はいつも食ふ事ばかりを思つて
るる。斯る人間は只食ふ為めに生きてゐるばかり、其の頭は脅鈍で、何一つろくに
出来ない。然し「貪食は人の本性で、才能ある子供にも根ざしてゐる」と云ふ人があ
るがそれは間違てゐる。元より子供の時は食ふより外に考は無いが、男だと十四歳、
女だと十二歳位になると、最早食ふ事ばかりは思はない。何を食べても旨くなり、
今迄欲しいと思はなかつたものでも欲しくなる。然し子供が食ひ過ぎる様な事でも
のつたら(私の教育法でやれば食ひ過ぎる事は無いけれども)面白い遊戯をさせて、
食事を忘れさせ、活動させて、ゲツタリと疲れさせるがよい。是程たやすい。是程
有盆な事はない。又、或る人は『子供は食ふ事まで忘れて課業をするものでは無い
といふ。其も尤だけれども、私の云ふ処は、そんな種類の課業ではない。私の考
てゐるのは自然法であつて、此の自然法に誤りは無い。
元来、人の心はただ物を見たばかりでは興奮しない。実物を美化する力は一に〓
像である。若し想像の力が吾々の見るものに一種何とも云へぬ情を惹き起させない
場合には、吾々の受くる快楽は只感覚の機能内に限られて、却つて心は冷かであ
成熱した人よりは、愛らしい子供に何とも云へぬ方のあるのは、之と同じ理由であ
る。人の最も愉快とするは何廃時であるかと云ふに、『お互に昔はあんな事をした
とか『ほんとに、昔はあんな事をして面白かつた」とか云ふ様な幼時の追懐である
即ち目で実際見て、若かつた頃を思ひ出す事である。老いぼれた人や、死にかけ
人の姿を見ては、誰も愉快を感じない。けれども十歳から十二歳位までの丈夫な
気のよい年に釣り合ふ立派な体格をした子を見ると、思はず愉快な観念を振り起さ
せる。彼には何の心細い考も無く、又何の取越苦労も無い。有り余つて溢るゝばか
りの生命を楽しんで、あくまでも元気がよい。快活である。生気が〓刺としてゐろ
けれ共、時は移り、人は変る。間もなく少年の眼は霞んで、其の快楽は止まるであ
5う。喜悦にも別れ勇ましい遊戯にも別るであらう。やがては厳格な六ヶしやの大
人が容赦もなく其の手を握つて、『此方へ来い!』と云つて何処へか連れて行く、見
れば其の連れられて這入る室には書物がある。書物よ!汝は子供にとつては不愉快
千万である。
斯くして世間の多くの子供は不快な渕に陥つてゆくのであるが、エミイルは決し
て左様では無い。エミイルは恐怖を知らぬ子供である。又悲と不安を知らぬ子供で
ある。私の幸福な愛らしいエミイル。『エミイル茲へ来い』と呼ぶと、エミイルは直
ぐ嬉しけに飛んで来る。エミイルは友達と仲よく遊ぶ。エミイルは私に会ふと、喜
んで共に永く遊びたがる。何時も二人は一致してゐるので、一緒に居る程嬉しい事
は無いのだ。
斯うして、エミイルの体格や、挙動や、容貌はいつも満足と安心とを語つてゐろ
其美しい健康の輝き満面に溢れてゐる。彼の一歩一歩はドツシリして、強い威風を
示してゐると共に優しいけれども蒼く無い顔には、少しも虚弱の影を見せてゐない
快い大気と太陽とは男らしい彼の風釆を造り、未だ、まんまるとした其の姿は、彼
自身の発達してゆく品性の証拠を現はしてゐる。而して未だ青春の熱情に燃え無〓
晴れやかな眼は、生れながらの涼味を湛へ、永久の悲哀にも霞まず、限りの無い軽
も其の〓を荒さない。其の機敏な確実な運動からは、年に相応しい活力が見え。強
い独立不覊の精神が認められる。且様々な運動から得来つた経験が見える。彼の与
動は爽かで自由だけれど、決して横柄でなく、徒でもない。其の頭はまだ俯向い下
本を見た事が無いから胸にうなだれ下る事もない。又彼は耻や恐怖の為にうなだれ
た事もない。
又、まだエミイルは慣例、故実を知らない。彼は昨日迄更に口にも出さなかつた
事を、今日は実行する。彼は形式にも権威にも模範にも従はず。自分の好きな事で
なければ語りもせず。行ひもしない。旦、エミイルには自分に属するものは自分の
ものだと思ひ、自分に属しないものは吾がものではないと思つて居るが、其れ以上
の事は分らない。それでエミイルには、義務も服従も何の事か分らない。其でエミ
イルには『是をせよ』といふ様に命令しては駄目である。それよりも『是をして下さ
い。私も亦してあげるから』と云ふ。すると子供は直ぐ喜んで求めに応ずる。又、
エミイルは助力を要する時には、憚らずにさう訴へる。丁度、下男にでも云ひつけ
る様に帝王にも相談する。エミイルの目には下男も帝王も平等だからである。エ〓
イルの表情は単純素朴である。其の声にも其の風釆にも、其の挙動にも、懇願する
時と拒絶する時とに関せず。奴隷の様にへつらはず、又主人の様に胸使もしない
エミイルを全然自由に放任して、其のする処を見てゐると、彼は何事でも考へず
に為てない。又身分以上の力を見せかける萩な事もしない。彼は目分のし
は自ら責任を負つてゐる。彼は機敏であり又快活である。且、其の挙動
間力を有してるる。殊にエミイルは、不時の困羅に出会しても怖れとせず
〓な事があつてもピクともしない。エミイルは屡々必然の圧力を感じた。だから
然の力に情れてるる。何事が起つて来ようとも彼は平気である。
〓事をするにも遊ぶにもエミイルは何時も満足してゐる。遊戯も彼に取つては倫
快なる仕事である。彼は何をやつて而白がる。やればやる程愉快を感自を
する。そこで追々とエこイルの心の傾向や知識の系統の現はれて来るのが見える。
第きのある楽しげな眼で、悦ばしけな美しい顔色をして、無邪気にニコ?と遊
〓する様に仕事をしたり、一寸した事にも幸福を感じてるるエミイルを見るのは
如何にも気持がよい。
くしてエこイルは幼年期の終に達した。子供としての生活は年相応な理性を得
出来得る限り幸福であり、自由であつた。若し〓の鎌が、エミイルの上に落ちか、
り、その頼母しい希望の花を切り落しても吾々は更に其の死を嘆かず、又あんな事
をしたから、遣麼事になつたのではないかと云つて嘆き悲しむにも及ばない。少く
とも彼は少年期を楽しんだのである。吾等は自然が彼に興へたものを一つとして失
はせなかつた。たとヘエミイルが死んだとしても嘆くには及ばない。
偖、今迄述べ来つた初期の教育の功果も余程眼識の明かな人でなければ認める事
が出来ない。大なる心づくしの下に教育せられたエミイルも俗人の眼には却つて無
頼漢のやうに見えゐかも知れない。然し普通一般の教師は常に己の利盆に走つて生
徒の為を思はない。彼等は其の時間を空費しない事や、自分が俸給を受くるに足る
べき者である事のみを示さうとする。従つて教師は目に附き易い智識や発表し易い
ものを子供に授ける。学ぶ事が実際有盆だらうと無盆だらうと、そんな事には頓着
しないのだ。試験の時には子供が持つてゐるものを見せさへすれば教師はそれで満
足する。だから子供は試験が終へると、其の持ちものを元に収つて、また以前の
を歩く計である。エミイルは、其夢に知識を持たない。エミイルは唯自分の力よ
外には何も人に見せるものがない。然し一時一分の間にその価値の分るものでは
い。まして況や、子供である。どうして一見したばかりで其の特性を見定むる事が
出来よう。
余り多くの事を教へられたり尋ねられたりすると〓くなるのは人の常である。子
供は猶更のことである。子供の注意力は数分を経れば疲れる。さうなると執つこい
賀問はもう耳には入らないで唯返事するだけでも物うくなる。這麦風に子供を教育
して果して何の盆にならう。