聖書物語 バベルの塔

約物

バベルの塔

○ノアの家族は年と共に増え栄えて、地には再住民が充ちて来たが、被洪水の前と後とは住民の有〓

が大に違ふ、洪水の前は、チグリス、ユフラテの二の川の間に、人民が皆一緒に集つて住んでゐたが

果の方の山を越え、西の方の破漢を過ぎては人影が殆んどない、その他の〓い世界には誰一人住んで

ゐなかつた、夫が洪水の後では大いに変つて、一家々々が彼方へ移り、此方へ分れたりして、方々上

住所を求めるに至つた、かくして広い土地を成る丈多くの人々に用はせやうとする神の計画であみ

さて、その民が方々に散るやうになつたのは、斯ういふ順序である、方舟が止つたアララテ出から

南へ下つて、チグリス、ユフラテの二の川の間、シナルの地に来たノアの〓は、一家が漸次に栄え下

来たので、一の市を作つて是を国の首都として、民を四方へ散乱すまいと金てた、其時に土をよく焼

固めた瓦を発明したので、是を用へば丈夫な建物をすることが出来る、『さらば高き塔を作上け、地か

ら天に声えさせやう、此塔を目標としたら私等は散乱で一所に集つて居られやう』と考べて、人々い

乙を〓り、〓潔で〓めて、一医藩と塔を積んだ、併し静は人が洪水の静の棒に一所に集つて諸方入

設らぬのを喜ばない、人が一所に集れば悪人が出来て夫が他の人をも悪の方に引込んで、又洪水前

の様な汚れた世になるのを恐れたので、今、世を治めるための市と塔とを建てやうと働いてるる人々

の語を混雑させた、今迄は人は皆同じ語を用つてゐたから、互に不便なしに話してゐたのを、神が漸

〓に「人々々の語を変へて来たので、やがて同じ一家の者の語は解るが、他の一家の語は少しも輝ら

ない標になつて了つた、互に談話をするに不便桜まるので、藩やくに人々は互に語の解る同士集つて

他の土地へ移つて行つた、斯うして塔は遂に完成らずに止んだ、塔は長く半成の儘で立つてかる。

〓市は夫からバベル(混乱)と呼ばれたが、今はパピロンと云つてゐる、バベルから人々が八方へ散

"たが、其中に北へ往つたのはアツスリヤの都ニネべを建て、西に往つたのはニル河の辺に国を建て

〓ヂブトと云つた、北西へ彷徨つたのは地中海と云はれる大海の浜まで出て、シドン、チルの市を作

り、身は船夫になつて、諸方の国々へ渡つて商買をした、斯くして地に数多の国が出来、多数の民が

住んで、種々の書語で談話をするに至つた。

エミイル 第五編 女子教育 ソフイイ(エミールの妻)

第五編 女子教育 ソフイイ(エミールの妻)

○今青年期の終の舞台となつた。凡そ人一人なるは宜しくない。エミイルは妻

まする。而して其の妻はソフイイである。吾々は先づソフイイが如何なる婦で

るかを知らなければならぬ。さうすればソフイイが何処にゐるか大抵見書がつく

である。然しソフイイが見出されたからとて、まだ話が終るのではなけも

私はロツクの云へる如く、此の若き紳士は今や婦する為に、世の多くの女交

さすべきものとは思はない。何故と云ふに、私はエミイルを紳士とし教育しる

ないからである。

 

○ソフイイ即ち婦人

 

〓イルが真の男子であると共にソフイイは真の掃人でなければならない。

し、吾々は生理的にも道徳的にも女性と男性との一致と相異とを知らねなら

さて、男と女とは類に於ては同じであるが性に於ては全然異なつてゐる。此の性の

差別はやがて道徳的性質の上にも影響を及ぼしてゐる。だから男女の優劣或は平等

を論ずるのは愚かな事である。男女はともに其の性質に従つて自然の目的に向ふの

が完全な事で、其の異同を比較して優劣を争ふべきものでは無い。完全な男と完

全な女は形に於ても相似るものではない。其の完全は大小多少を以て論ずべきもの

でない。男女は共に共通の目的を追求するけれども其の行く途は異つてゐる。従つ

て心の方面にも相異がある。即ち男は活動的で強固であり、女は受動的で弱い。女

は濫職であり、男は意志と体力とを要する。此の原理が一定すると、女は男を喜ば

せる為のものである事が明かになる。男も女を喜ばせるけれども男の男たる所以は

寧ろ其の力である。男は其の強さを自ら喜ぶ。此は愛の法則に先だてる自然の法則

である。

右に述べる通り男と女とは、其の性格や体格が違うから其の教育も亦同じではな

い。自然の示す処に従へば互に協力するが、然しそれは同じ仕事をすると云ふ意味

では無い。従つて仕事を指導する趣味も異つてゐる。吾々は今迄自然的男子を教育

したが、是れからは此の男にふさはしい女子の教育を考へるのである。ところが

女も亦常に自然の示すが如く教育されねばならない。諸君は女は男の持たぬ欠点を

持つてゐると云はれるけれ共、婦人にとつては其の欠顕が反つて美徳となるので

る。若し婦人に其の欠点即ち美徳が無かつたら万事男子は不都合を感ずる。

どこまでも男女の能力は違つてゐるけれ共、其の全量は平均してゐる。女は女

して優つてゐるが男としては劣つてゐる。だから女は女たる特性をおし立てゝ、行

けば立派な事であるが、男の権威を奪はうとすると間違つて了ふ。然し女は全く毎

知に育てられて只家政の事ばかりして居ればそれでよいと云ふのでは無い。男は一

の優しい妙味や愛情を棄てる事は出来ない。男は妻を奴妙同様にして其の智性感性

を妨ぐるものでは無い。夫は其の妻を人形の様にして満足するものでは無い。殊に

に温職精確な心を与へた自然は女をさうするものとは命じてゐない。自然は婦

人に自ら考へ、自ら判断し、愛し、知識を得、身体の様に心をも養ふことを命じて

るる女は様々の事を心得べきであるが、只知つてよいもの計を学ぶべきである。女

には其の独特の職分から考へても、其の性向を観察しても、又其の義務を思つても

婦人相当の教育がある。即ち女の教育は男子に関係が無ければならぬ。男を喜ばせ

たり、男に実盆を与へたり、男に愛せられたり、敬せられたり、男の幼きを教育し

〓り、男の成長するのを注意したり、男と相談し、男を慰め、人生を美はしく喜ば

しくするこそ女の務である。此の原則を離れれば離れる程、女は女の目的に遠ざか

つて、其の結果は女自身の幸福にもならず、又男の幸福にもならない。

女の児は産れて、幾年も経たない頃から着物の美を愛する。只美しいのも好むば

かりでなく、美しいと思はれようとする。斯う云ふ心の起つた事は其のいぢらしい

風釆で分る。此の原因は何から来てもよいが、女にとつて斯う云ふ考が起るのはよ

い事で、よく之を教育する事は大切な事である。身体は心よりも発達が早いから

羽一になすべき教育は身体上の教育である。男には体力を発達させ、女には優美

姿を発達させなければならぬ。

女が余り弱いと、男も弱くなる。女は男程に強くなくてもよいが、強い男を生お

だけの強さは持つてゐなければならぬ。此の点になると粗食はしても、様々な自

な運動をして、野外や庭内で走り廻つて遊ぶ事の出来る寺院学校や、寄宿学校は索

庭よりも遥かに勝つて居る。

男の児と女の児には、共通の遊戯があるが又違つた個人的趣味をも持つてゐる

男の児は運動や、廃ぎが好きで、太鼓を叩いたり、独楽を廻したり、車を転ばすが

女の児は鏡や玉や布片や、特に人形を好む。人形は女児特有の玩具で、之は即ち

児の本領的傾向が、婦人独得の仕事を示すのである。人を喜ばせる術は個人の装

と云ふ身体上の基礎を有するもので、此の身体を飾る術は、子供のみ練習する事ぶ

出来るものである。

準備さへ出来れば、裁縫も刺〓も、レース編も自ら出来る様になる。掛雌条は子

供にとつてはさう容易では無い。子供は室内の装飾を喜ぶ程に発達してるないから

そんなことは大人の判断にまかせる。掛斐条は大人の婦人のする事で、女の児はま

だ喜んでやらない。

女の児には、野を云つて始終仕事をさせて置かねばならぬ。怠惰と我儘とは女の

児にとつて大変危険な事であつて、一度萌したら仲々治らない。女の児は事々に注

意深く、且勤勉でなくてはならぬが、此れ計でなく、小さい時から束縛の下に置か

なければならない。束縛は女にとつて免るべからざる運命で、之から離れようとす

れば、一〓激しい苦に遇ふのである。女は一生涯厳しい一種の束縛、即ち礼法に従

はなければならぬから、早くから此の束縛に償れて、何事も別に束縛と思はない様

に仕向けねばならぬ。又他人の意志に従ふ為に、自分勝手な心を抑へ附ける習慣を

套はなくてはならぬ。現代の人は馬鹿らしい程無定見だから、淑女の生涯は克己ど

ころか、全く之と正反対な事ばかりして、男子の上に大なる弊害をぶつかけてゐる。

斯う云ふ理で、女には自由が少ないし、又なかるべき筈である。然るに女は自由

を許されると之を濫用する。女の児は何事も極端に走つて、遊楽に耽る事は男の児

よりも甚だしい。之は女児独特の悪い性質だから矯正しなければならぬ。我が儘な

彼等は、今日心に思ふてゐる事も明日になると早心掛けなくなる。女の児に趣味の

定まらないのは、強い感情と其の弊害等しく、其の源も同じである。女の児に快活、

喜悦、物騒ぎ、遊戯を禁じてはならないが、一事から他事へ直ぐ気の移つて行く事

〓厳禁しなければならぬ。一生涯を通じて、女には束縛を〓したと云ふ考を起さし

てはならぬ。束縛に慣れると、男には一生欠くべからざる従順の心が出来る。女の

優しくして居るのは男の為ではなく自分の為である。男があまり優しければ女は我

が儘になる。けれ共夫たるものに獣類根性の無い以上は妻の柔和は、よく夫を改め

させ早晩男に打ち勝つ事が出来る

女は流暢な舌を持つて居る。女は男よりも早くから、なだらかに喜ばしげに語ろ

にから女は暁舌り過ぎると云つて咎められるが、私は決して咎めず、反つて奨めて

やる女は口も目も動かして語る。男は知つてゐる処を語るが、女は喜ばしい事を語

る。女は語るに知識を以てし、男は語るに趣味を以てする。男は其の題目を有盆な

事柄にとり男は喜ばしい事に題目をとる。然も男女の談話に於ける唯一の共通点は

語る事の真理たるべき事である。

女は与論に支配され、其の宗教は権威に支配される。で娘は母の宗教に従ひ、妻

は夫の宗教に従はなけれはならぬ。例へ其の宗教が違つて居てもよい。母や娘が自

然の法則に従ふて己を捧ぐる順良の徳は、神の前に誤の罪を拭ひ去るに足る。若し

女が自ら判断に苦しむならば夫の判断に従はなければならぬ。

女は信仰箇条を自ら造り出す事が出来ないから、之を良心や理性の範囲内に保つ

がな。様々な外部の感化に依つて、処から被処へ追ひ廻され

〓とりに浮して、真理共ものには達し得ない事が多い而い領、

〓て、徳と〓を前よのには達し得ない事が多い。而して何事にも極端

〓て、信仰を問和する事が来い。けれ共れをな

りではなく、男性の成候のたりれ共それは中庸を得ない女性の罪

かり?く、性の処蒙の持方のよく無いのにも原因する。道を御の理

を〓し、梅校の怖ろしさには、梅校其のものが暴郡であるかの業ふ。

が宗教に対して余り熱心になつたりしもぬ暴君であるかの様に思ふ。こ

るかにり熱ひになつり、時く冷波になつりまるあある。れ

で女には信仰の理由を説いて聞かせるよりも、ずるるりする所以である。それ

【がで由を説いて脚かせるよりも、信ずるものを明かに話し即かせ

のが肝要である。

ケに義務の知織を与へる理性はそんなに複雑なものではない。特

の義務知るしめる理性は、頗る点をのある。夫ずると

〔左に対する和と注意とはの情から起る自然のものであるる

本の亡な限りは、誠実を保つ内心の導きに従ひ自分の義あ認

は居られない。

世間は女の書物である。之を読んで悪るいと思つたら其は女の誤であり情熱に目

眩まされたのである。私は世の所謂賢母とも云ふべきものが、其の娘を田舎から円

里へ連れて来て、危険な堕落した都の様を見せてゐるのを見ると黙つてゐられない

けれ共若し娘がよい教育を受けて居つたら、這麼汚ない都の様を見ても更に害には

ならない。正しいものに対する趣味や、感じや、愛情のある人は世の弊風に誘惑さ

れないのである。現代の様に堕落した世の中にも、まだ??虚飾といふ偶像の前に

膝を屈せず、虚栄の崇拝を賤しむ立派な婦人が何人も居るから、吾々はまだ絶望し

ない。人に対して高ぶる女は愚かな女で、造り飾らない女は賢い女である。

ソフイイは血統がよい。又良い性質を具へてゐる。其の心は正格と云ふよりは深

酷である。其の気質は爽かで執こくない。其の姿は質素で気持がよい。ソフイイの

欠いてゐるよい性質を他の女が持つてゐる事はあるけれ共、幸福な品性を造るにソ

フイイ程よい性質を持つたものはない。ソフイイは美人ではない。けれ共ソフイー

の前に来る男はソフイイより以上に美しい女を思はない。ソフイイは見れば見る〓

美しくなる。ソフイイは人の心を眩まさないけれ共、よく人を迷はす。で何故さ

であるかは誰も知らない。ソフイイは華な服装を悪んで、単純で上品な着物を好ん

て着る。ソライイは何慶色が流行するかは知らないけれ共自分に適当なものを好ん

で着る。ソフイイは自分のなまめかしさを隠してゐるけれ共、何となく奥宋しい

ソフイイの心は華美ではないが悦ばしい。深刻ではないが健気である。とり出で

ゝ人と変つて居ないから人から殊更に噂さるゝ事が無い。ソフイイは自分に話し

ける人々を喜ばす心術を知つてゐる。ソフイイは生れつきお転婆である。子供の時

は放任されてゐたけれ共、少しづゝ其そゝつかしいのを矯正して来た。でもソフ・

イは年頃になる迄には忝々しくしとやかになつた。『あらツ』とソフイイは自分の

はづみな調子に直ぐと気が附くと黙つて顔を赤らめる。其の様子は如何にも可愛し

しい

ソフイイの宗教は理に適つて、単純である。ソフイイは自分の一生涯は神に捧け

たもので只善をなすべきものである事を知つてゐる。ソフイイは徳を愛する。しか

も此の愛は、ソフイイの全行為を支配する熱情となつた。ソフイイは真の幸福に至

る唯一の途は美徳であると思つてゐる。ソフイイは死ぬるまで貞淑温良である。〓

フイイは心冷かに虚栄心を以つて人に媚びたり、喜悦よりは華侈を好み、快楽より

は〓楽を求むる魔力のあるフランス女では無い。ソフイイは明日をも待たずに移り

行く世の果敢なき誉を得るよりも、何時迄も変らない一人の男子を喜ばせたいと思

つてゐる。

ソフイイは男女の権利義務をも教へられてゐる。ソフイイは男子の欠点も女子の

罪悪も知つてゐる。又男子の善性美徳をも知つてゐる。ソフイイの理想として居ろ

女程気高い美徳の女は誰も描く事は出来ないが、ソフイイは又、美徳の男子、真に

価値ある男子をもつと切に想つて居る。ソフイイは自分が斯う云ふ男の為に生れて

ゐる事や、斯う云ふ男子にふさはしいものである事、さう云ふ男子から幸福にして

貰へる事又自分もさう云ふ人を幸福にして上げる事の出来るのを信じてゐる。ソァ

イイは其の人に会つて見れば必ず分ると信じてゐる。だが其の人を見出すのが仲々

の骨折である。

ソフイイは婦人達の中にあつて、しとやかで忝々しい計ではなく、已に結婚した

男子、或は年長の人々にあつてもさうである。同じ年頃の男子に対してはさうでは

ない。彼等に敬せらるゝ為めには別な態度をとる。ソフイイは自分にふさはしい

慎深い素振りを棄てない。若し男子が慎深いならば、ソフイイは青春の楽しい知

しみを彼等とつゞける、そして無邪気な話をしては喜び、真面目な話になると有盆

な事を学ぶ。若し話が無趣味になつたら直ぐにお終ひにする。男子が言葉巧みに媚

びるのは、失礼な事として、ソフイイは之を矢舞に賤しめる。ソフイイは自分の求

めて居る男子は、遺慶事を云はない事を知つてゐる。そしてソフイイは慕はしい里

子の品性を心の底に深く刻みつけて居るから、さう云ふ品性で無い振舞を他の男か

ら受くるのは厭で堪らない。ソフイイは女性の権利に就て高尚な意見を抱いてゐる

又清い感情の湧き出づる高尚な霊魂を持つてゐる。ソフイイは自分を喜ばせようと

して厭な事を云ふ人を怒を以つて待遇はしないけれ共、恥かゝせる様な賛辞を呈し

たり、知らぬ顔になりすましてゐる。ソフイイは馬鹿な小才子の玩弄物になる為に

教育されたのでは無い。

ソフイイは盆々智慧が成熟して、最早凡ての点に於て、二十歳位の婦人に発育し

た。実はもだ十五歳であるけれ共、もう子供同様に取扱つてはならない、両親はソ

フイイに、じつとして居られない青春のそわ??しさの現れて来たことを認めたら、

亘ぐと其の傾向の進まない内に準備をしなければならぬ。即語るには優しい道理に

適つた事を教へなければれらぬ。且年と晶性とに相応しい事を話さなければならぬ

さて自然の儘では、人は思素する事が出来ない。思索するには他の技衛を学ふと等

しく練習しなければならぬ。しかも甚だ六ケしい練習である。男にも女にも各々二

種の異つた等級がある。即ち考へる性と考へない性である。そこで考へる性の男子

は考へない性の女子と結婚してはよくない、さう云ふ女と結婚すれば男は自分の者

〓妻に配け与ふる事が出来ず、為に家庭生活の真の喜を得る事が出来ないからであ

る。婦人にして思考の力が無かつたら、何うして自分の子供を教育するだらう、又

何うして子供の為に最もよい事を発見する事が出来よう。どうして自分の知らない

美徳に子供を導いたり自分の知らない事を教へたりする事が出来よう。斯う云ふ女

は自分の子供をあやかしたり、威嚇したりして、吾が儘息子をつくつたり、臆病鳥

子をつくつたりするより外に教育の途を知らない。だから教育ある人が教育の無い

女を娶つたり、教育のされない様な等級の女と結婚してはよくない、然し学問があ

り才があつて、家庭を図書館か何ぞの様にして何も彼が一人で切り廻す様な女より

も、粗朴に育てられた、単純な娘の方がどれ程よいやら分らない。立派な婦人は決

して虚勢を張らない。その人に才芸があるなら、仮さうに見せかける様な馬鹿らし

い事はしない。女の栄誉は夫の尊い処にある。女の楽みは家庭の幸福の中にある。

女の容貌風釆は結婚の第一義のものでは無い。いかにも最初に目につくものであ

るが、実は下らぬものである。結婚するには美人を求むべきでは無い。暫く経つと

美貌の観念は無くなつて仕舞ふ。六週間もすればもう美貌といふ事は思はなくなろ

が、美貌から来る危険は一生涯つきまとふものである。若し其の美人にして天使で

無かつたら、その夫程悲惨なものは無い。吾々は何事にも中庸を求めたい。女でも

十人並の女がよい。恋を起させる顔よりも、深切な感じを与へる顔、気持のよい引

力のある顔の方がよい。心の美は顔の美の様に消え失せるものでない。結婚後三十

年経つても、善良な婦人の美妙な心は結婦当座と等しく夫を楽ませる。

私がソフイイを選んで教育したのも茲に理由がある。ソフイイはエミイルに最も

〓した女である。ソフイイはエこイルの真の住偶である。ソフイイは一寸見たば

りでは著しい印象を与へる婦人ではない。けれども、日に日に清新な妙味を現はょ

婦人である。ソフイイの感化は自然々々に現はれる。従つて彼女と交際して初めて

其れに気が附くのである。特にソフイイの主人は其を切に感ずるであらう。

きてエミイルは今迄、他の生物と自分との身体〓関係を学び、人と吾との道徳〓

関係を学んだが、更に之から同胞国民の政治的関係を学ばなくてはならぬ。彼が

の目的を達するには先づ一般の政治の性質及び様々の政治を研究し、其の後被が

配せられる特殊の政治を研究しなければならない。

 

-エミイル終-

エミイル 第四編 十五歳より二十歳まで(道徳、宗教々育の時期)

第四編 十五歳より二十歳まで(道徳、宗教々育の時期)

○光陰矢の如く人生は束の間である。人の生涯を六十年とすれば、最初の十五年は

何の用にも立たないで過ぎ去り、最後の十五年はもう老いぼれて了ふ。誕生か

終までの間は程遠い様であるが、つまらない事をして居る内に早暮れの鐘が鳴る。

人には二回の護生がある。一つは此の世に現れた憲生で、一つは生活に這入る

生である。人はいつまでも子供ではない。自然の定めた時が来ると子供の時代を

にする。其の移り代るや束の間であるが、永久に消えない影響を及ぽす。此の危塩

が私の云ふ第二の護生である。男は男として女は女として、此の年頃となると始

て頃の人生に入る。斯して世間の教育は茲で終るが、私の教育は茲に初まる。

郵情は自衛自存に必須な力で、之を娘さうとするのは〓席した事である。而し

其の熱情の源となり、其の他一切心意の動作の原因となり根底となつてゆくものは

自己の愛である。此の熱情は原始的、本来的のもので、其の他一切の情は是が変態

するのである。自愛は正しい心の働である。子供にとつて最初に起る感情も自愛で

其の次には自愛に根ざす処の自己の周囲の人々を愛する心である。斯くして人の研

究しなければならぬ事は自分と人との関係である。幼年時代は只自分と事物との関

係ばかりを研究すればよかつたが、長じて道徳的性質を感じ初める様になれば、自

分と人との関係によつて自分の事を学ばなければならない。

人が伴侶を求むる様になるともう孤立の生活をするのでなくなる。其の心の状態

ももう孤独では無くなる。人との関係や、凡ての情念は婦人を懐ふ心と共に生ずる。

春機発動期と性欲とは気候に影響されると云ふが、もつと確実なのは、無学粗野な

人民よりも、教育ある文明人の方がよつぽど早く此の時期に達する。斯く人が異性

を意識する様になるには、教育の力が与つて力ありとすれば、教育の仕方如何で時

明を早める事〓とする事も出来。斯う云ふ考から、私は世間から色々議

れてるる処の好奇心の自的を早く子供に知らせていいかどうかと云よ乳

引お出す事が出来る。即ち私はさう云ふ事は必要な事ない。

〓は起る様にしてやらなければ起るものではない。だから起もせなると

〓ればらぬと云ふ程の智問でない以上は、部の答をするよりばみな

い答へるなら露諾しないで舞瞬と、共の好奇心を刺激しない様にへ

ばならぬ。

〓気しめる一良法がある。共の子供を取り問む凡の人々が

を重んじ、無邪気を愛する事でる。何事でも其の儘に包み隠しなりく

はゑ疑の金を挟ない。造り飾の無い観念を直な言葉で云ひ表はせ危

想像の火の手を打ち消す事が出来る。

法意して教育された青年の心中に、初めて起つて来る感情は総愛

意て教育された青年の心中に、初めて起つて来る感情は変愛ではなく

前である。初めて起る想像は青年に世にある多くの『同胞』に心附かせる。即ち異

を愛するに先ちて、人類を愛させる。そこで此の子供の心に人道の種を蒔くには自

発的感性に俟たなくてはならない、従つてこの教育の功を奏するのも此の年頃でな

くてはならぬ。

子供が十六歳になると、已に苦しんだ経験があるから、苦痛の何たるかを解し得

〓けれ共、他人の事になると一向分らない。見ても何も感じなければ、知つたとは

云はれない。併し感費が漸く発達して、想像の火が燃える様になると、友達の愁訴

にも心を動かし、その悲しみを共にし、共に苦しむやうになる。斯くして同情の金

は発達するのである。是れが自然の秩序である。此の同情を喚起し之を教養し、自

然の赴く処へ導き従はせやうとするならば斯かる心情の膨脹力を働かすに足るだけ

の目的物を示すより外はない。此の目的物は心情の力を増して、之を他に及ぽし、

己の外に己を認めさせる。と同時に心情をば押縮めて、自己の事のみを思はせ、兎

欲を増進させる様な目的物を遠ざけねばならない。

さて之から、又本論に立返つて云ふのであるが、青春の危機が近ついたら、其の

戒となるべきものを知らしてやらねばならぬ、彼等を興奮させる様なものに近寄〓

せてはならぬ。出来るだけ彼等を大都会から田舎に移した方がよい、其処では単純

な田舎生活が情欲の発達を遅くする。然し子供の血気は、教育の妨とならない。〓

つて之に依つて完全な教育を施す事が出来る。子供の情愛、其の手綱にして諸君は

子供を指揮する事が出来る。子供が他人に心を傾ける様になると他人の愛をも感〓

る様になり、且は此の愛の表象に気を附ける様になる。斯くして恩に感ずるのは白

然の情である。生徒を従順ならしめるには全く彼を自由に放任して置くがよい。生

徒が諸君を探し出すまで、諸君は自分を隠して置けばよい。生徒には只興味ある事

ばかりを語つて置けば自づと報恩の念を高める。そして愛することの何たるかを咸

する様になると、彼は自然に自分と自分の愛する者との間に暖かな喜ばしい睦び▲

のある事に心附くのである。

エミイルは今迄自分の事ばかり考へて居たが、だん??と自分の友達の事が目に

ついて彼我相較べる様になつた。而して此の比較から来る情は己が第一位を占めん

とする欲望となつて現れる。けれ共、彼の品性を形づくる熱情が仁愛慈善のもので

のるか、残酷兇悪なものであるか、又は暖かく憐み深いものであるかを判断しよう

とするにはエミイルが如何なる地位を得んとし、種類の障害を冐さねばならぬかを

考へてゐるか其を知る必要がある。斯うするには先づ彼に人類の通有性を示し、次

の其の異点を示さなくてはならぬ。すると自然と文明との不平等が量られ、全社会

秩序の様も示される。社会を研究するには人を研究しなければならぬ。人を研究す

るには社会を研究しなければならぬ。政治と道徳とを別々に研究するものは其の何

れをも解することが出来ない。此は吾々に取つて大切な研究であるが、順序正しく

やる為に、先づ人情を知らなくてはならない。而して其の人情を暁らせるには歴史を

教へるのが何よりである。歴史の研究をすれば哲学の講義なとは、聞かずとも人情

請む事が出来、利害などの頓着なしに人々を見る事が出来るやうになる。けれ共歴由

の研究にも一通ならぬ危険と困難とが伴うてゐる。元来人を公平に判断する事は

かしい事である。然るに歴史は善の方面よりも悪の方面を一〓強く描き出すもので

ある。歴史にとつては革命や国難は面白い材料であるけれ共、平和で静に栄えて〓

く治世は何も描き出す材料が無い。即ち歴史は一国民が廃頽して行く様を表はした

もので凡ての歴史は国民が終りを苦ぐる時に初まるものである。而して発達しつ

ある国民は到底歴史で表はす事の出来ない程幸福であり賢明である。吾々は悪い車

ならはやく知るが、善い事は仲々知る事が出来ない。世に名を聴かす者は悪人で

音人は忘却されたり嘲弄されたりしてゐる。是歴史が哲学と手をとつて人類を誹該

すを所以である。猶云はねばならぬ事がある。一体歴史は人間を顕はこないで、・

の行為を顕はして居る。歴史が人を描くのは只或る特別な時と晴れやかに装う下

の場合ばかりである。だから歴史上の人物は、人に見られようと茎美を装うて居

公務の人ばかりで、其の人が家庭にある時、或は書斎にある時、其の家族と共にま

る時、友人の団体に這入つた時などに就ては、更に何ものをも述べない。だから!

史の描くところは一箇人の人物ではなくて衣裳である。人情の研究をするには先で

箇人の伝記の中に現れた人物は自分を隠す事は出来ない。如何となれば伝記々者は

どこまでも描かうとする人物を鋭く観察して書くからである。そして一番よく隠か

てゐる事を、一番よく記者が書くからである。

今やエミイルは世界の舞台を初めて見んとて共の幕をひき上ぐる所である。彼は

問場の後ろに〓つて、俳優が着物を説いだり着たりする所や、幻影で観客を欺く

や、絡車を数ふる所を見るのである。忽ち其の驚きは人類の為に恥ぢ、人類の為に

〓しむ情緒となつて現れ、子供らしい遊戯に似た処偽な人々の生活を見て悲竹する

〓は自分と同じ人間が空しい影を追うて五に肉を食ひ、人たる事より寧ろ猛黙に近

附きゆく有様を見ては坐ろ悲痛を感ずるのである。

イルは人々の間にも亦動物の間にも、紛乱争謝のある事を好まない。然る

るエイルに争ひを撓みかけた人があつた場合、彼がどうしたらよいかと幸ね

ら私は断じて争ふ必要はないと答へるであらう。エミイルは二匹の大を傷動し

るひをさせたり、猫に大を追ひかけたりする様な事さへしない。彼の好むもの

平和である。彼は幸幅の面務を見るのを喜ぶ。エミイルは人の苦しむのを見る

でない。然し只同情するばかりで満足する様な人間ではない。エミイルが人をり

て害福にしようと思つたら、きつとさうして見せる。彼の同情は活きたるもので

る。

和気導くも繰り返して云ふが、青年の教育は唯口先ばかりの教育で無く

ぼ行の教でなければならない。経験で教へられる事なら、書物では何致へ

ならない。

トやエミイルの心意に開発せられたるものは実に偉大である。而してその私情

肩芽を尽く枯らした感情は実に崇高なものである。私の教育法で多くの心の要求

定の関界に集中さして来た処の経験の生み出すエミイルの判断力は明瞭で其の理

性は実に正確である。彼は自分に劣つた者を、自分と同等の所まで引き上け、引き

上げる事が出来なければ自から彼等と同等に身を引き下げる。正義の真原則、美

真模範。一切の道徳的関係、秩序に関する凡ての観念は、エミイルの理解力に刻

つけられてゐる。彼は万事に処して、正義の那辺に存するかを知り而してその原因

を知つてゐる。彼は善を生ずるものゝ何たるかを知り、善を妨ぐるものゝ何たるか

を知つてゐる。

私が自然の人を知らんとするのは、エミイルを野変人にして、森の中に送り返す

明では無い。社会生存の湖巻の中に生活して、文明人の偏見や謬説に惑はされない

人をつくるのである。彼は己の眼を以て見、己の心を以つて感じ、己れの理性に〓

み頼つて如何なる権威にも服しない。エミイルは自分の力の及ばぬものには断じ

注意を払はず、理解の出来ないものには決して耳を傾けない。知らぬ時には憚らず

知らぬと云ふ。知らないからとて恥とは思はない、やがて彼が宗教上の大問題に心

を悩まし初めても、人から云はれてさうするのではなく、自分の知力の必然の発達

が彼を導くのである。さて如何なる宗教に彼を導くべきかと云ふに、吾々は決し

一の宗旨に彼を引込んではならない。彼は自分で正しいと思つた処を信じなければ

ならぬ。彼は自然に順応はねばならぬ。彼が人目の無い所でも善人たらんとし、き

を行はんとして与味を感ずる様になるのは此の時である、法律に強ひられず、神

吾々との正しい約束を守つて落ぶのも此の時である。義務の為には生命をも抛つて

喜ぶのも此の時である。此の心を離れては、人々の間に只不義、偽善、虚為あるば

かりである。私は生命のある限り主張するが心の中に神無しとして口には都合よ

善を云つてる奴は虚偽漢である。大馬鹿者である

「度は来なければならぬ自然性の真実に発揮せられる時が来た。人は死ぬべき

仰を持つてゐるから各自其の種族を継続し、世界の秩序を保たんが為に自己を実理

しなければならぬ。各々危機の徴候が見えて来たらば、彼はもう吾々の友人である

彼は一個の人である。此の時期に於てどんな教育法を施せばよいかと云ふと、子

の性向を許してやるか拒絶するか、即ち子供の協同者となるか、子供の暴君になろ

か、両者その一であるとは人の云ふ処であるが、孰れにしても危険であり且決定す

るには困難である。で私の考へる処では、自然には、早める事も出来ず、遅める事

も出来ぬ一定の制限があると云ふ訳では無いから、私は自然の法則を離れないで、

ミイルを無邪気に育てゝ来た、然るに此の幸福な時期も早終りを告げた。だから

今後私のとるべき途は只一つあるばかりである。即ち彼に自己の責任を持たせるこ

とである。而して今は凡てを彼に示すべき時である。少くとも怖るべき誤謬に陥ら

ない様に彼を防き、又彼を取り囲んで居る危険をさらけ出して見せる時である。今

まで彼は無智であつたから、巧に導く事が出来たが、今後は自分の智力で自ら治

なくてはならぬ。若しエミイルか自由に明ら様に其の心を打開けて語る間はまだ

険は迫つては居ないから怖れるに及ばない。けれ共彼が控へ目になり遠慮勝

おど??した所が見える様になつたら本能はすでに発達して、悪の観念が己に親し

み初めたのである。かう云ふ時には一刻も猶予は出来ない。速かに手を入れないと

大変な事になる。

青年に発生して来る欲求は理性と矛盾するものばかりだと思ふは偏狭である。〓

〓をして理性に従はせる力は、欲求そのものの中に存在してゐるのである。熱情た

押へるには熱情の力を要する。自然を御する力は常に自然から得来られなければお

りぬ。私はエミイルが其の心に女性の友を要求して居る事を知つてゐる。で、私

今最も適当な一人を探し出してくる。けれ共そんな人は仲々あるものではない。

れ共急がず失望せずに探さねはならない。きつとエミイルに立派な婦人があるに〓

違ない。こんな喜ばしい言葉で私はエミイルを社会に送り出す。此れ以上に云ふ事

はない。之で私は成すべき凡てをすましたのである。

エミイルの未来の恋人はソフイイである。ソフイイは優しい愛らしい素朴単純だ

女である。エミイルは世の軽桃浮薄なる女の風釆を厭ふ。彼の理想と誘惑せんとす

る世の女どもとの間には非常に大きな隔りがある。

境て私はソフイイを探し初めた。然るに時は来る。エミイルが失策してソフイ

外の女を提へるかも知れない。もしさうなつたら何とも取り返しはつかない。そ

れで吾々は今や巴里に告別しよう。吾々は真の変愛と幸福と無邪気とを求めてこの

巴里から遠く離れれば離れる程いいのだ。左様なら、我巴里よ-

エミイル 第三編 十二歳から十五歳まで(智的教育の時代)

第三編 十二歳から十五歳まで(智的教育の時代)

○青年になるまでの間は、専ら弱い時代であるけれども、体力の増進につれて、漸

く需要の増進を来し、絶対的には猶甚だ弱いのではあるが、比較的にも強いものと

なる。其の凡ての要求はさほど発達しないでゐるが、活動力は有り余つて来る。小

年期の第三期に於ける子供は此の意味に於て甚だ強い人である。而して斯る時期は

人の一生中の最も貴重な時であつて、二度とは還つて来ない。その上この時期は頗

る短いから、之を善用する事が必要である。然らば其の有り余つてゐる勢力能力を

何う用ふれば善いかといふに、好機会を俟つて、自分の為に使ふ事の出来る様に貯

へて置くやうにさせる。即強い子供は、体力の衰へる大人になつた時の準備に其の

力を貯へて置くのである。だから此の時期は労働、教授、勉強の時である。斯くい

ふ私の独断ではなく自然の示す所である。

人の智力には限りがある。人の総ての事を知る事が出来ないばかりか僅かばかか

他人の知つてる事さへ己の物とする事が出来ない。真理は間違つた考の反対である

真理の数は頗る多いが、誤謬の数も亦頗る多い。だから教授の材料となる事物と

それを学ぶ時とをよく択ばなくてはならない。けれども子供を賢明にする為に吾ム

の要する智識はたゞ必要なもの丈を知つて居ればいゝのである。

吾々の知識は、宇宙に存在する事物に対してこそ僅であるが、子供の心意に取一

ては猶其の範囲は広大なものである。然るに人間の知性を曇らすものは虚傷な学問

である。虚偽な学問は少年の辺に怖しい渕をつくる。力強い引力を有する誤謬とし

を中毒する高慢の誘惑とに注意しなければいけない。『無知は断じて悪を産まない

危険な罪悪を産むは只誤謬の観念である」吾等が途を誤るのは知らないからでな・

知つてゐると誤解するからである。

同一の本能は様々な機官を刺激する。身体の活動に次いで教へられようとする心

の活動が起きて来る。躁しかつた子供はだん??と好奇心を生じ、其の好奇心はよ

く導くと此の年頃のよい動機力となる。人には幸福を求める固有の欲望かある。然

し此の欲望は到底十分に満す事が出来ないので人は盆々それを求めんとする心を振

り起させられる之が好奇心の第一の原則である。而して此の好奇心は熱情や、知力

の発達に伴つて発達するものである。だから吾々は如何なる場合にも興味を持たな

い知識を人に授けないで、本能の導くがまゝにやつてゆくのがよいと思ふ。

地球は人類の孤島である。而して吾等の目に最も強く触るゝ最大力は太陽である

此の二つは人が眼を外へ向けようとする時になると、まづ何よりも最初の目的物と

なる。以前までは手に触るゝもの、身の周囲にあるものばかりを相手にして居たの

が、今や地球を澱り、宇宙の果まで飛んで行かうとするやうになる。此の急激な変

動は体力の発達と、心意の新傾向との結果である。けれ共観念の世界は未だ此の〓

5の子供にはないから、其の思想は目の及ぶ範囲に限られ其の理解力は、悟性

かすれば働かす程拡がつて行く。感覚したものは観念となるか一足飛びに感覚か

知識に移るものではない。充づ感覚して遂に知識が出来るのである。心意の凡ての

働きの起りは感覚である。世界より外に書物なく、事実より外に教材は無い。部君

に子供に地理を教へるのに、地球儀、天文図、地図を用るるが、其磨機械的な事

しないで、何故初めから実物に依らないのであるか。実物を示してこそ、兎も角

理解する事が出来るのである。

理解の出来ない事を子供に話し聞かしてはならぬ。記述や能弁術や話し方や詩

を子供に教へてはならぬ。未が感覚と趣味を養ふ時では無いからである。複雑な

緒的な時は間もなく招かずともやつて来るのである。

エミイルは私の原則を精神として、自分の事は自分でやる様にし、又自分の力の

及ばない時しか他人の助力を仰がない事に慣れて来たから、新しい物が見つかつ

ら、何とも云はないで黙つて永い間見て居る。彼は思慮が深い。けれ共質問を出さ

ない。そこで其の好奇心がいよ??〓つた時、一寸簡単なる明かな問を出して、直

ぐ其の解決のつく様にしてやるのである。

科学は分解法で教へるのがよいか、総合法で教へるのがよいかと云ふ事は多少の

議論があつたが、必ずしも其の何れに従へといふ必要はない。両法を同時に応用し

しゐると、互に助けとなつて、明瞭に意味が分る。例へば地理学の研究をするには

此の二箇の方法を用る、子供の住んで居る場所から出発して、各部分の研究をすろ

と共に、地球の円形な事を知らせる事もある。又子供が天体を研究しながら、丁度

天体にでも登つた心持のして居る時、再び彼を地上に呼び〓して、注意を地上の部

分々々に向けさせ、先づ彼が住んで居る所を知らせるのである子供が地理を学ぶに

当つて、第一に見定めねばならぬ二箇の出発点は、自分の住んで居る町と、父の住

んで居る村里である。次には其の両処間の村々を知らしめ、其の地方の河流を知ら

せ、最後に太陽の研究をさせるのである。更に之を連絡させるには、子供に地図

選らせるがよい。地〓と云つても至極簡単なもので、初めは只二箇の点から成立

るもので、段々と見確めたのを書き加へて、其の間の距離や位置を都合よく見計

はせるのである。

さて、幼時期は時日が永かつたが、此の時期は何も大切な事はしないうちに早ノ

過ぎ去つて了ふ。其の上此の時期になると情籍が起り易い。で、さうなると子供は

もう何ものにも注意を向けなくなる。子供を学者にしようとする教育をしてはな

ない。此の時期は子供に学問の趣味や学間の仕方を教へ、善良な教育の根本的原〓

を授け、同一物に長時間の注意を払ふ習慣を少しづゝ養ふべき時である。然し強い

て注意させてはいけない。其の注意は喜と楽より自ら望んでするのでなければな

ない。此の注意が子供の為に重荷とならず又うるさきものとならぬやうにし、絶み

ず其の眼を鋭くさせるのがよい。退屈な思をさせて注意させても何の利盆にもな

はい。若し子供がうるささうであつたら止めさせねばならぬ。自分の意志にさから

つてやつた処で何の盆にならう。

子供が問を発したら盆々好奇心を励ますやうな答をして、其の心を満たしてはい

)ない。殊に子供が教へられようと思ふ心なく只徒に由なき問を発して諸君を煩ま

はすぐに口を味んで止めねばならない。子供の語る言葉にはさう注意しなくて

語らうとする動機にはよく注意しなければならない。今迄はかう云ふ注意はそれ程

必要ではなかつたが、子供が自分で判断を始める様になるに連れて肝腎な事とな

てくる。

一般の心理には一つの遺鉱がある。其の連〓で、凡ての科学に共通の原則といふ

ものが出来、理論鑿然として研究が出来る。然し斯かる連鎖は哲学者の用ゐる処で

のつて、其の他に或る一個のものが、他のものを引き出し、其れから復其の次のが

出て来るといふ一の原則がある。此の第二の原則は目的物に対する注意を断えざる

好奇心により続かせる連〓であつて、子供には特に有盆なる方法である

エミイルと私とは長い間の親察で、琥珀や硝子や封楽や、其の他様々の物体

探せられると吸引する事を知つたが、又吾々は更に強い引力のあるものを発見した

其のものは〓擦されないでも若干の距離に於て鉄粉や鉄片を吸引した、それは磁

である。一日二人は市に行つて、手品師が水鉢に浮んでるる蝋製の家鴨を類色の

れで引寄せるのを見た。エミイルは之が手品師の仕業だとは少しも知らないで〓く

驚いてゐた。エミイルは其の原因の知れないのを〓りに不思議がつてるたが私は急

いでその判断を下さうとはせず然るべき折の来るまで静に知らぬまゝにしてるた。

それから帰宅してからも市で見た家鴨に就いて話をしてるたが遂にそれを模傚し

うといふ事になつた。そこで一本の磁石力の強い針を取り出して、印蝋を塗り着

家準の様な形を作つて針の先を嘴にした。此の家鴨を水の上に置いて鍵を其の対に

近づけた時、丁度市の手品師がバンでした様に寄つて来た。其の日の午後二人は用

意の類包をポケツトに入れて町へ行つた。而して手品師が手品を終へると吾が小博

士エミイルは堪りかねたやうに、其の位の事なら僕にだつて出来る、一つやつて見せ

ようと云つた。それではと手品師は承諾したので、エミイルは鉄片を包んだ〓包を

出して、家鴨に出した時、家鴨はすつと此方へ寄つた。すると子供は嬉しさのあま

り、且叫び且躍つた。手品師は暫時まごついたがエミイルを抱き且祝して、明日と

亦来て下さい。もつと多くの人を集めて置きますからどうぞ一つしつかりやつて〓

せて下さいと云つた。斯くして吾が小哲人エミイルは面目を施して得たり顔にして

ゐるのを私はすく連れて帰つた。

エミイルは可笑しな程心が落ち附かないで翌朝まで時間を指折り数へた。漸く其

の時が来て、会場へ駆け附けたが、もう人は堵の如く集つてゐた。ところが今日は

他の手品が色々と演じられて、手品師の手ぎわの巧い事は驚く許である。けれども

エミイルは少しもそれを見ず其の心は暫くも静まらず汗が流れ息せわしくいら??

してゐた。漸つとの事で自分の順番になるとエミイルは群衆の前に現はれて紹介

〓た。エミールは前に進み出てポツケツトの中からパン布を取り出した。処が定め

がきは世の態である。昨日の馴れた家鴨は今日尾を向けて逃げて了つた。幾度ハ

を差し出しても逃げて行くので遂に子供は僕は欺されたのだ。之れは昨日の家鴨で

は無い。お前が一つ試つて見せて呉れとつぶやいた。そこで手品師がバン片を差・

出して招くと、家鴨はすぐ寄つて来て自由自在にその跡を慕つた。エミイルも亦同

じバンを取つてやつて見たがどうしても巧く行かない。却つて彼を愚弄する様であ

つた。すると手品師は室の真ん中に立退いて得意気な調子で、「今度は手では無く

声で自由自在に家鴨を動かして見せまする』と公衆に広告した。成程右に行けと二

へば右に行き、帰れと云へば帰り、来いと云へば来る、廻れと云へば廻り命令通ム

に行はれ以前にも倍した〓釆が起つてエミイルの前には騒がしく人々が立塞つた。

でエミイルは散々な為体で逃げて帰らねばならなかつた。

明くる朝手品師が吾々を訪ねて来た。手品師は謙遜な態度で愁訴した。成程彼が

訴へるのも其筈である。何の恨も無いのに、私共があんな事をして手品師の信用を

落させたり、其生計の途を断たうとしたのは悪かつた。手品師は愁訴の後に『私は

又御覧に入れました外にも、無頓着な子供に立会ふ術を心得て居ります。で、私は

昨日お困らせ申したあの秘密を喜んでお知らせに参りました。何うか今後はこんな

哀れな商売をする私の妨にお用ゐ下さらないで一際お慎しみ下さいませ』と云つ了

その器械を見せた。驚くまい事か、其は只一つの強い磁石であつて其を子供がテー

ブルの下に隠れて動かしてゐたのである。手品師の帰りに臨んで私共は感謝したり

〓を云つたりして金を与へようとしたけれども、彼は『手品の代なら戴きますが、

教授の代は戴きません』と断つた。

斯う云ふ実例は存外効験のあるものである。此の一例の中に多くの教訓が見出さ

れる。虚栄心の働きは多くの恥辱となつた。斯かる恥辱と不愉快の情を受けた以上

は、子供は再び道慶事を繰り返すものではない。併し這夢恥をかゝせるのも一つか

理備であつて、これに依つて子午線の代りに磁石器を造らんが為である。磁石は〓

の物体に距てられても猶働きのある事を知つたから、寒に見た器械に似たやうな

のを造つて見やう。即ちテーブルの中に窪みを作つて浅い鉢を按め、適当の水を入

れ、以前の家鴨よりか、も少し念を入れて造つたものを浮ばせる。斯くしてよく

察すると、家鴨はいつも同じ方面に向いて、而も南北を指してゐる。此丈の観察に

出来ればもう磁石は発見されたのである。而して物理学を学ぶべき時も来た

地球は所によりて気候を異にし、気候によりて温度を異にする。四季の状態は掲

地へ進めば進む程変化し、総てのものは寒さには収縮し〓さには影脹する。〓

化は液体に於て著るしく殊に酒精に於て著しい。此等の現象に基ついて験温器が潜

られる。

風は顔に触れるので空気は物体であり、流動体であることが分る。水の中ヘコ

ブを〓き込むと其の中の空気は遁るゝ道が無いから、水はコツブの中に入らない

だから空気には抵抗力のある事も分る。然し段々と深くコツブを差し込むと水は小

しづゝ上に上る。すると空気は或る程度まで圧し縮められる事が分る。圧し縮めた

空気を充したボオルは、普通の空気が充したボールより一〓強い弾力を持つてゐと

其処で空気には弾力のある事も分る。入浴した時、湯の水平面から腕を上げると重

たさを感ずる。そこで空気には重さのあることが分る。空気の他の流動体と平均さ

せるとその重さが量られる。この原理によつて晴雨計、曲注管、空気銑、空気ポン

プは造られるのである。斯うして静力学と静水学の一切の法則は、日常の経験で〓

出される。であるから事々しい物理実験室は要しない。学問を殺すものは学問上の

飾付である。此等の器械は子供を駿かし、又其の注意を散漫にする。

凡ての器械は自分で造るがよい。実験しない先に造つてはならない。実験をやっ

て、子供が理解してから少しづゝ製作した方がよい。其の器械は完全でなく正確で

なくとも、どんなものかといふことが明瞭に分ればよい。

吾々が事物を明に且正しく理解するには、それを人に教へられるよりも自分で予

ふ方が遥に有効で、一〓多く事物の関係を発見したり、器械を工夫する事が上手に

なる。若し教へられた儘を覚える習慣をつけると、吾々の心は同じ事ばかりしか出

来なくなる。例へば科学の研究をするにも、色々な巧い簡便法はあるが、それより

も〓を掛けて骨折つて覚える事にする方法が大切である。私の主張する骨折の多い

遅い方法で研究して居ると、よく身体を動かし、手足を自由自在に使ひ廻し、且つ

労働や有盆な仕事に堪へ得る様になる。

純粋な理論的の知識が子供には分らないといふ事は既に述べた。けれ共、組織的

に深入りはさせずとも、多くの経験を結合する様なやり方はさせなければならな」

さうすれば多くの経験が其の心に秩序正しく排列して必要に応じて思ひ浮べる事が

出来る。事物や理論ははなれ??になつてゐると容易に記憶し難いものである。

子供の心が発達するに従つて、新しく仕事を選んでやる事に注意しなければなら

ない。子供が自分の幸福を判断し、最大利盆と最大損害との関係を理解する様にな

ると、遊戯と仕事との差別を知り、遊戯は仕事の疲れを休める事だと思ふ様になる

すると其の真面目な研究の中に実盆ある事物を取り入れ、絶え間なく勉学する様に

なる。その必然の法則は、将来の大不幸大災難を防ぐには、今日の前にある不快な

事でもやつて見せると云ふ事を子供に教へてくれる。実際斯ういふ風の先見に慣れ

てくると、凡ての人智を得る事も出来れば不幸を逃るゝ事も出来る。

子供が自分の需要の先見が出来る様になると其の智力はずつと進んだもので時間

の価値が解るやうになる。時間の価値が解つたら有盆な仕事をする習慣を養つてや

らなければならない。

原因結果の関係はあつても之を知らず、善悪の区別はあつても其の観念が無く要

求はあつても其を未だ経験した事が無ければ、其等のものは吾々にとつては無であ

る。吾々は観念や経験のない事に興味を感ずるものでない。人は十五歳で賢者の幸

福を知り、三十歳で楽園の光栄を知る事が出来る。けれども之に就て明らかな観会

を無かつたら之を得ようといふ考は起らない。たとへ其の観念があつても其を要求

せず又有盆だと思はなければ何の甲斐もない。吾々をして実行せしむるものは只熱

情ばかりである。けれども興味のないものに熱情は起らない

私は書籍を禁ふ。昔ヘルメスは其発明した科学の原理を水難に会はせまいと思と

処から円柱に彫み附けたといふ事である。若し彼が人々の聯織に其を彫みつ

ば今磐存したに相違ない。然しよく教育された頭脳は無上の記念碑であつて、それ

には人相の知識が永違に形み附けられる。熱心な哲学者エミイルよ。君の想像力は

今や与奮して来た。そこで吾等は今や何冊かの書物を持たなければならぬ。さて抄

に一冊の本がある。私は之に優る自然教育論は無いと思ふ。其れは『ロピンソン.

ルツオ』である。ロピンソン・クルソオは老人が読んでも面白い子供が読むと猶更面

白い。ロビンソン・クルソオが島の近くで破船に遭つた処から、段々と島の生活をつ

ゞけ遂に島へ助け船の来る迄の事は、今の年頃のエミイルに取つて非常な与味と〓

訓とを教へる。私はロビンソン・クルソオの生活にエミイルの頭を向けさせ、其の〓

造りの家、山羊、草木の植附等に心を寄せさせる。私はエミイルに自分はロピンッ

ン・クルソォだと思はせる。而してクルソオの失策にも注意させて之を利用させ、同

じ境遇に立つても之に陥らない様にさせる。

凡ての技術の中で第一に最も尊いのは農業で、其の次は鍜冶、第三に大工であろ

世俗的偏見に浸潤しない子供の考も亦さうである。此の豊に於てエミイルは、ロド

ンソン・クルウソオから多くの事を学ぶのである。

未だ社会の一員としての働が出来ない時から、子供の心には少しづゝ社会的関係

の観念が形成される。エミイルは自分の物を得る為には他人の役に立つ必要品を得

なければならない。他人のおかけで自分の欲しいものが得られると云ふ事を知らね

ばならぬ。私は容易に斯る交換の必要であるを子供に感ぜしめ、又此の交換で幸区

を来らせる事の出来る境遇に彼を導く事が出来る

エこイルが生活の何たるかを知るやうになつたら、私は先づ彼に生活の道を教

てやる。私は今迄地位、爵位、財産の区別を立てなかつたが今後も立てない。何坊

といふに自然の要求と云ふものは誰しも同じ事で之を満す方法も亦同じである。ん

の教育は人に施すもので、人でないものに施すべきものでない。もしも好運に適営

した教育を施すならば、それは子供を不幸に陥らせようと努むるのである

さて前にも述べる如く、人の生活をさゝえる職業の中、自然の状態に最も近く

境遇の如何を問はずして運命と人とからもつともよく独立したものは職工である。

併し農業も亦人にとつて一番大切な仕事である。私は一度もエこイルに農業を習

と云つた事はないが、エミイルは百姓仕事を皆よく心得てるる。併しながらエ

ルは自分勝手に自分のとるべき仕事を選む。私は何をせよとは迫らない。けれど

私の望む所は詩人たらんよりは靴師にならん事である。陶器に絵をかくよりは、大

道に砂利を敷くのである。注意すべきは実盆の無い職業は高尚なものでないと云ふ

事である。併し仕事の選択をあまり重視する必要はない。吾々の必要とする処は唯

手工である。エミイルが手工をする時は私も一緒にする。二人で一緒にやればエミイ

ルははか??しく進歩する。其れから吾々は丁稚小僧にもなる。ピイタア大帝は工

場に在つては大工となり、兵隊に出ては太鼓を打つた。此のピイタア大帝の様によ

く働けばよい。併し吾々は単に職工の丁稚となるばかりではなく、人と成るの修業

丁稚にもならなければならない。人と成るの修業丁稚は最も困難で最も永い時日を

要する。だから私の考では一週に一二度師匠の宅に行つて只指物を習へばよい。

師匠が起きる時に起き、師匠が仕事部屋に来る時に仕事に就き、師匠と共に食し、

其の命令通りに働いて夕食をすますと帰宅をする。斯うしてエミイルは種々な仕事

を覚えて手工品を造る事が出来る。私は始終エミイルに身体を働かせ、手先を働か

ゼながら其とはなしに、反省冥想の趣味を持たせて、無頓着に人を判断したり、熱

情を冷却したりする事のない様にする。エミイルは野蛮人の様に怠惰であつてはな

らぬ。エミイルは農夫の如くに働き、哲学者の如くに考へねばならぬ。教育の秘訣

は此両者相侯ち相助ける様に心身を練習する事である。

エミイルは自然の儘な純粋な物理上の智識を持つてゐる。彼は歴史上の人名を未

だ知らず、形而上学や、倫理学の何たるかも知らない。彼は深く人と物との関係を

知つて居るが、人と人との道徳的関係に就てはちつとも知つてゐない。彼は事物其

者を知らうとはせず只彼に興味を与ふるものばかりを知らうとする。彼は自分に掃

も有盆なものを最も貴び、且其の価値を判断して他人の意見には一目も呉れない。

エミイルは勤勉、節制、忽耐、強固で元気が溢れてゐる。其の想像はパツと燃え

上る事が無いから、決して危険な事はない。彼は余り不幸とか困難とか云ふものを

知らない。エミイルは死の何ものであるかを明かに知らないけれども、必然の法〓

にはためらはないで従ふ事に慣れて居るから死ぬ時が来たら静に死ぬる事が出来ろ

自由に生活して諸々の人事を頼まぬことが死ぬべき道を教ふる最良の方法である。

エミイルは他人に気兼ねしないで己れ自身を考へ、他人が己れの事をちつとも思つ

て居てくれなくとも自から心安しと思つてゐる。独立独歩してその思ふ処は只自己

あるばかりである。けれども何かにつけて起り易い高慢の念は未だエミイルには起

らない。彼は人の平和を贅き乱す事が無くて、自然そのまゝの満足、幸福、自由の

生活を続けて来た。斯の如くして十五歳になつたエミイルは過去の年月を無駄に失

つたものだとは云はれない。

エミイル 第二編 五歳から十二歳まで(体育、経験、官覚的教育)

第二編 五歳から十二歳まで(体育、経験、官覚的教育)

○幼年期は既に終りを告げて、今や人生の第二期とはなつた。子供が物を云ふ様に

なると泣く事が少くなるのは自然の勢で、茲に初めて子供の情意を表はす用語が変

つて来る。然し、猶此の年になつても泣く子供があつたなら、それは教育者が悪い

のである。エミイルは決して泣かない。彼は痛い時には只「痛い痛い」と云ふばか

りである。若し子供が転んで頭を打つたり鼻血を出したり、指先を切つたりする様

な事があつた場合には、すぐと駆けつけないで、暫くなりと動かないで居なければ

ならぬ。子供が怪我をした時には、此方の挙動一つで思ふ通りになるので些少の苦

痛に打勝ち猶進んで大なる苦痛に堪へ得る様な勇気は、此の時代に於て養はれる。

エミイルは怪我をしなければならない。私は決してエミイルが怪我をしない様にと

願はない。馬塵に高い処に坐らせたり、火の側に一人置いたり、何か危険物の処に

居らしたりすれば兎も角、私は自由にされてゐる場合の子供が、自ら死んだり腕を

切つたり落したり大怪我をやつたりしたと云ふ話を聞いた事がない。子供は力をね

すと共に他に訴へる必要がなくなり、自から助くる力が増すに連れて、他人に助け

らるゝ必要も少くなる。且つ体力が増して来れば従つて其を指揮する知識も発達し

て来る。だから個人生活の初まるのも此の第二期である。此の時代に於て始めて自

分に関する知識を得、何彼につけて自已と云ふ感じを起し、已も亦一個人だとい・

目覚が出来、困難に堪へ、幸福に処して行かうとする。斯うなつて初て子供は道徳

的であるといふ事が出来る。人の生涯は大抵限があるが定められぬは人生である。

人はいつ死ぬものか分らない。多く見積つた処で、此の年齢まで生き延ひる子供は

・全数の半分しかあるまい。だから吾々は現在を不定の未来の犠牲に供する世の残融

な教育をどう批評したらよいか分らない。其の喜ばしい時代は、〓や、〓戒や、

嚇や奴練的生活の中に過ぎ去るのである。これも子供の為に善かれと思つてるる

であらうが、実は知らず??の間に死に近づけて行く。あゝ教師は真情を尽さねば

ならない。真情を離れて智慧はない。子供は勝手気儘に遊ばせよ。その嬉々たる本

能を発揮させよ。子供の与へられたる束の間の喜びを奪ひ取つて永き恨を遺すな

そしたら彼等は何時死の神に召されても、人生の喜びを味つて死ぬる事が出来るの

である。子供を教育するには専ら実物に依り自然の秩序に従はねばならない。悪い

事をするなと規則立をせず、悪い事をしたら、其の時止めさせる。強いて規則立て

しなくても、其の経験と力の欠乏とは自ら子供の規則となる。彼等の身体を強壮に

し且つ共の成長を促がすところの自然力に逆つた事をしてはならない。子供は飛び

たい時には、飛ばせ、駆けたい時には駆けさせ、叫びたい時には叫ばした方がよい。

微等に対してあまり厳しいのと余り寛大なのとは、いづれも共に避けねはならぬ事

余り厳しくして苦しめたなら、其の健康や生命を危くするが、又た余りに大切に仕

〓ぎると、却つて権弱となり感覚は鋭数になり、

〓らろるをり感覚は発になり、遂には多くの不幸を積み真

あきを目然から来苔前に遺はせまいとすれば自然の筒な

好し加へてやることとなる。自然から総れたに真の幸編の前

答音痛にも会はせまいとするのは自然の幸福に離れさもるみしあるの

路界は番君の子供を不幸に警く方法を知つて居られるかりし

〓得せる禁にすれば、必ず不幸者になる。共の欲望は満せば満す程

遂には見るもの恐く欲しくなるなる。の欲望は満せば満す程増長して

に見るもの番く欲くなる、が神ならぬ身の何うして之を満事来。

云がまでもく、子供は称いから様々な東勅を受けて居る。然るに吾

ゃりして居る処からと様々な東縛を受けて居る。然るに吾々の考のぽ

ななて居る処から共の上にまだ多くの東耕を加へてるといふは

はあるまいか。人は理性の時代になれば必ずや社会の東転を〓るのを出業

そこそとそのになれば必ずや社会の東縛を受けるのである。何五

〓かしまとの東の手を早めるのであら。子仲を奴様の様にゑ新

ドがては東縛せられる子供である。暫くなりと教の様に取抜ふ親である

「がては東〓せれる子俵でる驚くなりとその若は自然あ

方がよい。

ロツクは子供と議論して理窟づくめで教育せよと云つた。是れは今日主として探

用せられてゐるところのものである。けれ共その成功は覚束ないであらう。理窟。

くめで育つた子供程馬鹿なものはない。云ふまでもなく理窟は他の凡ての能力の〓

合体であつて、其の発達は最も遅い。然るに之を一番先に発達させようとする。若

し子供が合理的であり得るならば、少しも教育する必要はない。子供は善悪を論じ

人間の義務の理由を解すべきものではない。殊に服従の義務である事を生徒に信ぜ

させようとしたり、又約束させようとしたりするが、こんな風にせられると子供は

輩つてさも理性に訴へてした様に見せかける様になる、子供はまだ義務の観念が務

達して居ないから、義務の何物であるかを知らせる事は出来ない。感じもしない義

務を負はせると子供は褒められる為にも、罰を逃れる為にも、不正直、詐偽、不誠

質な事をする様になり、遂に其れが習慣となつて表裏ある人間となり終るであらう。

さて、教育と云ふものが世界に初まつて以来、競争、猪忌、〓拓、虚栄、貪望

賤しい恐怖より外にまだ是れといふ程のものをも、案出する事の出来ない事は不可

思議な次窮である。ところが此の競争とか、猜忌とか、嫉妬とか、虚栄とか食望

が、恐怖とかいふものは、極めて危険であつて、まだ身体の出来上つて居ない子

の精神を、激しく酵隠させ腐敗させる。幼い頭に這入つて行く斯かる早熟的な教

は、子供の心の奥底に悪業を植ゑつける計である。又子供は経験ばかりで教育を

くべきものであつて、言葉でいろんな事を教はつてはならぬ。子供は過失のどんか

ものであるかを知らぬから、罰を科する事は出来ない。子供はまだ道徳に対する意

識がないから、道徳的の悪をする事は出来ない。だから叱つたり罰したりする事は

出来ないのである。

一体、人の一生で最も危険な時代は、誕生から十二歳までゞあつて、此の間に場

がく罪悪は萌すのである。一度萌したら、とても、打ち尊す事は出来ないのである

そこで最初の教育は全く消極的でなければならぬ。道徳や真理を教ふるよりも悪ぶ

誤りに陥らない様に心意を制限するのである。何も覚えず、又何も教へてやらなく

てもよい。たとへ十二歳まで左右の見わけが出来なくても差し支はない。唯丈夫で

さへあれば、子供は立派に理解力が働いて来るのである。だから現代の教育法と正

反対の途をとれば殆んど誤りは無いのである。

勿論教育は合理的でなくてはならない。然し子供と議論してはならぬ。彼等が意

見の価値を判断する力の無い間は、諸君の意見を知らしてはならない。人の心には

各々其の特性がある。だからまづ其の特性を観破しなければならない。即ち人を教

育するには、必ずその特性に従はなければならないからである。さて其の特性を知

るには只々子供の性格の自然に萌す有様に任せて、全然自由にして置かねばならぬ

斯くして自由に放任するのは、一見、時間を徒費するやうに思はれ易いが、実はよ

り善く時間を費すものである。幼少の時には時間など惜まずにうんと遊ばせた方が

よい。

人を陶治しようとならば、自身から先づ人とならなければならぬ。先づ人に宣言

する丈の模範を持ち人々の尊敬を受け、人々に愛せられる様になつて置けば、人は

皆諸君の思つた様になるのである。此方が心を開かねば相手も亦決して心をあか〓

ものでない。吾々の与へねばならぬものは金ではなくして親切であり愛情である

亡寧ろ吾等自身である。これ即私がエミイルを田舎で教育する理由である。田舎に

は子供を惑はし、子供に害毒を与ふる虚飾がない。田舎では思ふ存分に児童を動か

す事が出来る。且つ赤裸々な農民の話や模範は、都で得られない権威を持つてゐる

看し田舎で悪業の矯正が出来なかつたとしても、誘惑か無いだけでも結構である

僕はどんな生徒を預かつても実際的の教援をするであらう。物知をつくるよりよ

善人をつくるであらう。僕は誠を云へと生徒に迫らない。迫ると隠すおそれがあヲ

からである。又実行の出来ない約束はしない。若し、私の留守中に何か失策でもま

つてそれは誰のした事とも分らない時にも、エミイルを責めたり、「お前が為たん

やないか」と云はない。斯う云へばエこイルは否と云ふに定つてゐる。エミイルが

自分から是非或る約束をしようとする時は、其の申出を此方から出さないでエこ

ルに出させる。するとエミイルは其の約束を果した時には、一〓の与味を感じ、其

を破約した時には悪結果の身に及ぶを知るであらう。併しかうまでしなくとも。エ

ミイルはもつと大きくなるまでは詐の何物なるかを知らない。私がエミイルを人の

意志判断に頼らせない様にすればする程、彼は詐をいふ事が面白くない。

とかく利口な子供は馬鹿の様に見える。けれども子供の時の真の馬鹿者と馬鹿の

様に見えてゐて、実は確かりした人物との区別は仲々六ケしい、不思議にも馬鹿と

天才は初めは似てゐる様に見える。然し馬鹿者は妄想の起るに任せ、天才は何か真

の観念を得る迄は考へず、又雑念妄想を起さない、馬鹿は何も出来ないから何も仕

ないのであつて、天才は何もする事が無いから仕ないのである。どつちも馬鹿にし

か見えないが、之を見わけるのは機会である。天才は機会さへあると何かハツト田

ひつくけれ共、馬鹿は何に遭つても呆然として居る。

だから子供を尊敬して、決して軽卒に善悪の評を下してはならない。子供を矯エ

しようとするには、先づ??気永く辛棒して、その性癖を充分よく明らかでなけ、

ばならないプラトウの『国家』は余り極端かも知れないが『子供は只祭日、遊戯、眼

歌娯楽の間に教育せよ』と云つてゐるのは同感する。子供を真に喜ばせる事が出専

ればもう何も彼も立派に成功したものと云つてもよい。

子供は判断する力がないから真の記憶力も無い。小児は音や形を感ずる事が出来

るけれども観念を得る事は無い。まして観念連合は猶更の事である。それは子供の

知識は感覚的であつて、決して深く理性に道入つたものでは無い。又記憶でも完み

なものでは無い。然し私は子供が何麦種類の推理もする事が出来ないと云ふのでい

ない。子供はよく知つてゐる事、目前の奥味ある事に関しては、よく判断する。は

欺れ易いのは彼等の知識に関する事である。吾等は子供が持ちもしない知

持つてゐると思つたり、子供に解りもしない事を考へさせたりする弊があ。「一

毒学は教育に無用なものだ」といつたら吃驚する者があるかも知れない、小

は初学者に就て云ふのだから怪しからぬ事は無い。神童で無い以上は、二歳乃

十五歳の子供が二ケ国の言葉と通じよう筈がない。

若し言語学が言葉の研究即ち、発表する音の研究であつたら、子供に亦や

てよいであらう。けれども言葉は其の表徴の異るに連れて、現はす処の親金も遂つ

しゐる。どんな学問でも云ひ表はした符合が、思想と一致してゐなければ駄目で

る。然るに子供は斯かる符合を教はつても、其の符合の下にある事物に就ては理解

する事が出来ない。吾々が子供に地球を教へてゐる積でも実際は地図を教へて

計である。吾等は都会や国々や河流の名を教へてるる積であるが、子供は只新の上

に書いたものだとしか思はない。

あ不適な事がある。共は歴史を学ばせられる事である。一体歴史とい

のは単に事実の集合に過ぎないから、子供にも解るものだと考へれふ

〓の進ずないから、子供にも解るものだと考へ易い。けれ共人

は此の事実といふ言葉を何う解してるるだらう。歴史上の事実をなるあの

〓う容易なものでは無い。又子供の頭ではそんなにやく歴夷

は出来い。然るに事物の原因結果をはなれぐにしてはのをへ事

歴史上の事件は道徳上の間期を等閉〓にては、事物の真相は解らな

解上の事件は道徳上の問題を等閉に附しては知らるべきもので

の問題も歴史上の事件を等閑にしては分らないものである。狩類の弓

究するにも、只外部的、

るにる只外部的、総形町下の運動ばかり朝いだけでは歴史

があらう。斯ういふ研究には何の与味も盆もない。人の行為を道徳事塲のろし

〓よるとすならば、是等の関係を生徒に知らせなければもれ

史を教へて善いか悪いかが分つて来ようと思ふ。子供に只帝王や、帝

警や毎服や、英命や、法律等を口論させるのは容易であるが、それ伴

件はせるのはどんなに六ケしい事であらう。

若し自然が、子供の脳体に一切の印象を受け入れる丈の可能性を与へて居たとし

ても、其は、帝王、年代、絞章学、星学、地理等、子供にとつては無意義、不利盆

なもの計をつめ込んで幼い心を苦しめて、その精力を失はせる為では無い。子供の

柔い心で理解する事が出来、且つ有盆で、幸福の基となり、他日義務の観念を喚起

するだけの思想を刻みつけてやらねばならぬ。さうすれば彼は生涯、自分の身分才

能に応じて身を処しゆく事が出来るのである。

エミイルには何も請誦させない。昔噺でも無技巧な面白いう、フオンテエンの物

語でも教へない。訓戒的の寓話は面白いには面白いけれど有害である。子供は寓話

を聞いてもその真理を捉へようとはもず、面白く話せば話す程その真理は解らなく

なつてくる。子供は寓話を暁れはしない。兎に角私は凡てに偏見の多い学校教育か

ら子供を救ひ出したい。又子供を不幸に陥らせる書物を焼き棄てゝ仕舞ひたい。

〓ル十二歳になつたけれども未だ書物の何たるかを知らない。読むだけ

りと教へて置くがよいと云ふ人があるかも知れないが、私はその必要を感じない。

丁度其の年頃になるまで、読書は子供の心を毒する。それから請方教授法に就い下

は今まで種々の議論があつた。けれど何よりも確実な教授法があるのに其れ気

〓く人ない。共は即ち学ばうと思ふ欲望を起させる事である。与味こそ大なる

機であつて、確実に大きな結果を来すものである。吾がエミイルは歳になる迄

は立派に請み書きを覚えるに相違ない。けれ共私は十五歳になるまでは是等のもの

を顔いて教入ようとはしない。自然な有盆なものを失つて浅墓な智識を得させる上

りは寧ろ全く知らせない方がよいからである。

の生徒と云ふよりは寧ろ、自然児のエミイルには出来る限り早く自分の事は

分にやらせる様にする。他人に頼る習慣を附けさせない。直接自分に関係のある

なら、どこまでも自分で判断させ、又先見させ考へさせる様にする。エミイルは

〓鋳舌らないで実行する。彼は世間に何麼事が起つてもそんな事には少しも頓着せ

ず只自分のしなくてはならぬと思ふ事ばかりをする。エミイルは自然から学んで人

から学ばない。体格と智慧とは両立しない様に世間の人は思つて居るが、エミイル

は優等な智力と強健な体力を合せ持つてゐる。英雄豪傑と云はれる人はいつも此の

二者を供へてゐるものである。

自然的教育を受けてゐると、身体は盆々丈夫になり、心は愈々確かになり、又年

相応に理性が発達して一生涯の大幸福を得る事が出来る。自然的教育は吾等に力の

正しい用ゐ方を教へ、身体と四囲の事物との正しい関係を教へ、且力の許す限す、

体機の許す限り自然的の器を用ゐる事を教へて呉れる。斯くして学生は教場で学ぶ

よりは、学園で実際に学んだ方が一百倍の盆がある。

人間最初の研究は自己保存の為の実験物理学と云つてもよい。何故と云ふに、人

間最初の自然幽遅動は四囲の物で、自分を測り、知覚する所の物で自分の知覚性を

 

認むるからである。吾々の幼時に於ける哲学の先生は吾々自身の手であり、又足で

あり、目である。是等のものに代ふるに書籍を以つてするのは、人の理性を盗用ナ

る事を教ふるのである。

ずん??太つてゆく子供に著せる着物は手足ゆるやかにしてやらねばならお

い。又あまり頭巾を被ぶせないのがよい。けれ共髪を綺麗に整へる為には寐る時ば

かり頭巾を被ぶせてもよい。子供が段々成長してゆけば、其の筋肉繊維も亦強さ

増してゆく。それにつれて少しつゞ日光に抵抗する力を養つてゆくのがよい。段々

と其の度を進めて、遂には熱帯の炎熱にもよく堪へ得る様にしてやらねばならな〓

又、子供は身体の活動が甚だしいだけそれに適当する睡眠をしなければならぬ。瀬

動と睡眠とは共に助け合ふものである。自然の定める如く夜は休息の時である。〓

は太陽と共に寐起するのが、最も健康に適した習慣である。小さい時から、余り」

くない寝床にも慣れる必要がある。左様すればどんな寝床に寝ても気持の悪い事

ない様になる。枕をするが早いかグウ??寝込んで仕舞ふ人に取つては寝床が堅い

といふ事は無い。

私は時々エミイルをゆり起す。それは永く寝過ぎるのを怖れるからではなく、何

事にも慣れさせる為である。吾々は子供が水泳を習ふのを見て溺れはすまいかと

ふ怖れを抱く。併し習つて溺れるものも、習はないで濁れるのも全く一の失策であ

る。運動は危険を冒す事ではない。然し子供は危険に遭遇してもビクともしない様

に惜して置かねはならない。且、子供には子供相応な危険を冒させる様にして置ノ

と、他日危険に遭遇しても、之を防禦する事が出来る様になり、為に吾々は責任の

ある子供の保護を全うする事が出来る。子供には、夜中、様々な遊戯をさせるがよ

い。是は思つたよりは大切である。子供の心は夜になると自づと怖くなつて、理性

智慧も才能も勇気も仲々、役に立たない。元来恐怖は其の原因が明らかになると

治るものである。何事でも慣れると想像は無くなる。想像力を刺戟するのは只新し

いものばかりである。だから暗闇を怖れる者を治してやるのには、何も理窟を云は

ないで屡々暗黒な所へ連れて行くのがよい。這〓実行は、ありとあらゆる哲学のま

論を聞くより何程よいか分らない。

人は不時の災難に対していつも準備して居なければならない。エミイルは気候の

如何を問はず毎朝裸足で庭園を駆け廻るのがよい。子供には輻飛をさせる。高飛も

〓せる。木にも登らせる。垣も飛び越えさせる。然しエミイルには決して舞踊はひ

らせない。私はエミイルをオペラの役者にするよりは、鹿狩の仲間にしたいと思

てゐる。

さて今までエミイルは室の装飾をしなかつたが、もう之からは欲しいものは皆

へてやる。先づエミイルが自分で描いた絵を額に入れて順序正しく掲げて置く。よ

ると『成程是れが初て描いた絵である』と思つて見る度に喜ぶ。私は其れ等の絵の内

で一番初めに描いた拙ないのを一番綺麗な金縁の額に入れてやつて、模倣が段々

くなり画法が盆々上手になるに連れて、単純な墨塗の額位なものに入れてやる。

其といふのは立派な画は、画其のものが一つの飾だから余り立派な額に飲める〓

つて其れに注意を奪はれるからである。

子供には幾何学は解らない。然し、之は大人の学ぶ様な幾何学が子供に解らな」

であつて、子供相応の力でやらせるとそれ程解らない事は無い。即ち推理的な教

へ方をせず、幾つかの正確な形を描いて之を結合し、之を重ね、そして其の間の〓

味を験べさせる様にすると、一の観察から、他の観察へと進んで、遂には初等幾何

学の全部が解つてくる。何も別に定義や、問題や、証明の必要はない。私はエ

ルに幾何学は教へないが、只発見する事が出来る様に、共の間の閣係を尋ぬるの

ある。

羽根遊びは、眼と腕とを正確にし、独薬遊びは腕力を養ふから結構な遊戯である。

の論子供は大人の上着を著る程の身体しか持たぬから、三尺高さのテイブルで大人

と森に玉笑株を弄ぶ事は出来ない。然し子供相趣に大人の遊銭もやらせた方が

い。羽根女の遊競である。一体女は余り手荒い遊戯をし皮骨を

〓ならぬ。けれども男子は危険を怖れないで強健に身体を錬へ上なくら

以められる事がなければ防禦力を養ふ事は出来ない。飛んで来る玉の吏力をしし

りけ返す梅遊は、子を淋為のので大人の差

何事でも子供の時にやらして置くとよく出来る様になる。子供がんしもい

程町みに製寂に四肢を紛かすのは、よく人の見る処である。から大んのを

る程の手際を持たぬと云はれない。子供に若し或る差戯が出来ないかせ

習しないからである。

習しないからである。込はれない。子供に若し或る遊戯が出来ないとならば其は

g敷の声がある。第一には談話の声、即ち発音の明瞭な声、第二には歌

農ら皆綱の声第三には感動的又は張り上た声であ子の

将つてるが、共の結合の仕方を知らない。而して完全な音とは是三種

り最もよく統一したものであるから、子供にはその声が出ない、従つて其の歌には

魂が籠らない。又其の話し声はアクセントを持たぬ。唯大きな声は出るが変調が用

ない。特にエミイルの言葉使は単調単純である。これはエミイルに未だ熱情がない

からである。

〓食は無為な人間の悪癖である。無為な人間の魂はいつも食ふ事ばかりを思つて

るる。斯る人間は只食ふ為めに生きてゐるばかり、其の頭は脅鈍で、何一つろくに

出来ない。然し「貪食は人の本性で、才能ある子供にも根ざしてゐる」と云ふ人があ

るがそれは間違てゐる。元より子供の時は食ふより外に考は無いが、男だと十四歳、

女だと十二歳位になると、最早食ふ事ばかりは思はない。何を食べても旨くなり、

今迄欲しいと思はなかつたものでも欲しくなる。然し子供が食ひ過ぎる様な事でも

のつたら(私の教育法でやれば食ひ過ぎる事は無いけれども)面白い遊戯をさせて、

食事を忘れさせ、活動させて、ゲツタリと疲れさせるがよい。是程たやすい。是程

有盆な事はない。又、或る人は『子供は食ふ事まで忘れて課業をするものでは無い

といふ。其も尤だけれども、私の云ふ処は、そんな種類の課業ではない。私の考

てゐるのは自然法であつて、此の自然法に誤りは無い。

元来、人の心はただ物を見たばかりでは興奮しない。実物を美化する力は一に〓

像である。若し想像の力が吾々の見るものに一種何とも云へぬ情を惹き起させない

場合には、吾々の受くる快楽は只感覚の機能内に限られて、却つて心は冷かであ

成熱した人よりは、愛らしい子供に何とも云へぬ方のあるのは、之と同じ理由であ

る。人の最も愉快とするは何廃時であるかと云ふに、『お互に昔はあんな事をした

とか『ほんとに、昔はあんな事をして面白かつた」とか云ふ様な幼時の追懐である

即ち目で実際見て、若かつた頃を思ひ出す事である。老いぼれた人や、死にかけ

人の姿を見ては、誰も愉快を感じない。けれども十歳から十二歳位までの丈夫な

気のよい年に釣り合ふ立派な体格をした子を見ると、思はず愉快な観念を振り起さ

せる。彼には何の心細い考も無く、又何の取越苦労も無い。有り余つて溢るゝばか

りの生命を楽しんで、あくまでも元気がよい。快活である。生気が〓刺としてゐろ

けれ共、時は移り、人は変る。間もなく少年の眼は霞んで、其の快楽は止まるであ

5う。喜悦にも別れ勇ましい遊戯にも別るであらう。やがては厳格な六ヶしやの大

人が容赦もなく其の手を握つて、『此方へ来い!』と云つて何処へか連れて行く、見

れば其の連れられて這入る室には書物がある。書物よ!汝は子供にとつては不愉快

千万である。

斯くして世間の多くの子供は不快な渕に陥つてゆくのであるが、エミイルは決し

て左様では無い。エミイルは恐怖を知らぬ子供である。又悲と不安を知らぬ子供で

ある。私の幸福な愛らしいエミイル。『エミイル茲へ来い』と呼ぶと、エミイルは直

ぐ嬉しけに飛んで来る。エミイルは友達と仲よく遊ぶ。エミイルは私に会ふと、喜

んで共に永く遊びたがる。何時も二人は一致してゐるので、一緒に居る程嬉しい事

は無いのだ。

斯うして、エミイルの体格や、挙動や、容貌はいつも満足と安心とを語つてゐろ

其美しい健康の輝き満面に溢れてゐる。彼の一歩一歩はドツシリして、強い威風を

示してゐると共に優しいけれども蒼く無い顔には、少しも虚弱の影を見せてゐない

快い大気と太陽とは男らしい彼の風釆を造り、未だ、まんまるとした其の姿は、彼

自身の発達してゆく品性の証拠を現はしてゐる。而して未だ青春の熱情に燃え無〓

晴れやかな眼は、生れながらの涼味を湛へ、永久の悲哀にも霞まず、限りの無い軽

も其の〓を荒さない。其の機敏な確実な運動からは、年に相応しい活力が見え。強

い独立不覊の精神が認められる。且様々な運動から得来つた経験が見える。彼の与

動は爽かで自由だけれど、決して横柄でなく、徒でもない。其の頭はまだ俯向い下

本を見た事が無いから胸にうなだれ下る事もない。又彼は耻や恐怖の為にうなだれ

た事もない。

又、まだエミイルは慣例、故実を知らない。彼は昨日迄更に口にも出さなかつた

事を、今日は実行する。彼は形式にも権威にも模範にも従はず。自分の好きな事で

なければ語りもせず。行ひもしない。旦、エミイルには自分に属するものは自分の

ものだと思ひ、自分に属しないものは吾がものではないと思つて居るが、其れ以上

の事は分らない。それでエミイルには、義務も服従も何の事か分らない。其でエミ

イルには『是をせよ』といふ様に命令しては駄目である。それよりも『是をして下さ

い。私も亦してあげるから』と云ふ。すると子供は直ぐ喜んで求めに応ずる。又、

エミイルは助力を要する時には、憚らずにさう訴へる。丁度、下男にでも云ひつけ

る様に帝王にも相談する。エミイルの目には下男も帝王も平等だからである。エ〓

イルの表情は単純素朴である。其の声にも其の風釆にも、其の挙動にも、懇願する

時と拒絶する時とに関せず。奴隷の様にへつらはず、又主人の様に胸使もしない

エミイルを全然自由に放任して、其のする処を見てゐると、彼は何事でも考へず

に為てない。又身分以上の力を見せかける萩な事もしない。彼は目分のし

は自ら責任を負つてゐる。彼は機敏であり又快活である。且、其の挙動

間力を有してるる。殊にエミイルは、不時の困羅に出会しても怖れとせず

〓な事があつてもピクともしない。エミイルは屡々必然の圧力を感じた。だから

然の力に情れてるる。何事が起つて来ようとも彼は平気である。

〓事をするにも遊ぶにもエミイルは何時も満足してゐる。遊戯も彼に取つては倫

快なる仕事である。彼は何をやつて而白がる。やればやる程愉快を感自を

する。そこで追々とエこイルの心の傾向や知識の系統の現はれて来るのが見える。

第きのある楽しげな眼で、悦ばしけな美しい顔色をして、無邪気にニコ?と遊

〓する様に仕事をしたり、一寸した事にも幸福を感じてるるエミイルを見るのは

如何にも気持がよい。

くしてエこイルは幼年期の終に達した。子供としての生活は年相応な理性を得

出来得る限り幸福であり、自由であつた。若し〓の鎌が、エミイルの上に落ちか、

り、その頼母しい希望の花を切り落しても吾々は更に其の死を嘆かず、又あんな事

をしたから、遣麼事になつたのではないかと云つて嘆き悲しむにも及ばない。少く

とも彼は少年期を楽しんだのである。吾等は自然が彼に興へたものを一つとして失

はせなかつた。たとヘエミイルが死んだとしても嘆くには及ばない。

偖、今迄述べ来つた初期の教育の功果も余程眼識の明かな人でなければ認める事

が出来ない。大なる心づくしの下に教育せられたエミイルも俗人の眼には却つて無

頼漢のやうに見えゐかも知れない。然し普通一般の教師は常に己の利盆に走つて生

徒の為を思はない。彼等は其の時間を空費しない事や、自分が俸給を受くるに足る

べき者である事のみを示さうとする。従つて教師は目に附き易い智識や発表し易い

ものを子供に授ける。学ぶ事が実際有盆だらうと無盆だらうと、そんな事には頓着

しないのだ。試験の時には子供が持つてゐるものを見せさへすれば教師はそれで満

足する。だから子供は試験が終へると、其の持ちものを元に収つて、また以前の

を歩く計である。エミイルは、其夢に知識を持たない。エミイルは唯自分の力よ

外には何も人に見せるものがない。然し一時一分の間にその価値の分るものでは

い。まして況や、子供である。どうして一見したばかりで其の特性を見定むる事が

出来よう。

余り多くの事を教へられたり尋ねられたりすると〓くなるのは人の常である。子

供は猶更のことである。子供の注意力は数分を経れば疲れる。さうなると執つこい

賀問はもう耳には入らないで唯返事するだけでも物うくなる。這麦風に子供を教育

して果して何の盆にならう。

エミイル 第一編(幼年期総論)

第一編(幼年期総論)

○何んな物でも自然と云ふ造物主の手から出る時は善いが、人の手に託せられると悪くなる。人は何一つ自然が造つた儘にしては置かない。其の子供は園の植木を見るやうに思ふ存分に曲げられ撓められて了ふ。だからと云つてその儘に棄て置けば万事もつと悪くなる。それで私は世の中の慈愛と思慮とに富んだ母親の方々に社会の境遇と云ふものに、あなたの若木が踏み砕かれないやうに気を附けて下さるやうにお願ひする。すればいつかはその樹の収穫が、あなた方の努力に十分報いて呉れる。

 

○抑々、我等の産れ落ちた時は羸弱であり、無一物である。だから我等は強められ助けられなくてはならない。然るに吾々を強め吾々を助けるものは教育より外にはない。さて、此の教育は、天性、人為、事物三者の力を借りなければならぬ。即、能力機関の内部的発達は天性教育で、能力諸機関の発達を応用するのは人為教育で各々その個人的経験から得る処のものは事物教育である。此の三種の教育が統一されて同一目的を追求する人は真に教育されたる人である。以上三種の教育の中天性教育は人力の如何ともする事の出来ないものだが、事物教育は人の為なければならぬものゝまた為し能ふ事である。

 

○さて教育とは「天性に従ふ」事である。吾等には生れながらに感覚がある。吾々が快不快を意識するやうになると、まづ快楽を求め、不快を避けようとする。遂には理性の与ふる幸福とか善とかいふ観念のもとに事物を判断し、或は求め或は避ける様になる此の傾向が習慣に縛られる時は多少の変化を来す。此の変化のまだ生じない時の傾向を天性と名づけよう。教育は万事此の天性に適ふやうにされなければならない。ところが人をその人のために教育しないで、他人に都合のよいやうに教育しようと思へばどうしたらよからう。茲に至つて天性に抗つて公民を造るか、社会に抗つて人を造るか、二者其の一つを選ばなくてはならぬこととなる。自然その儘の人は自分の為に存在する。彼は数の単位である全体であるが、公民は分数的単位で其の価値は社会組織と云ふ全体との関係で定まるのである。斯くして人間をつくる教育と、国民をつくる教育と、此の二箇の矛盾した教育系統から、二個の相反した教育の目的が出来る。即ち一は公衆的公共的で、一は箇人的家族的である。然るに今や国家的教育といふものがない。一の国家といものも成り立たない以上は国民といふものは成り立たない。国家と国民性の二語は近代の言葉から除去して仕舞ふ必要がある。

 

○世間には学校といふ設けがあるが、此れは矛盾する二箇の目的を追求して、遂に何物をも得る事の出来ない制度である。そこでは始終無駄骨折をする偽善の人物が造り出される。もしもこの二重の目的が一個人の上に何等の矛盾も無くして適応されるならば、人間の幸福の大障害物は取除かれるに違ひない。その二重の目的とは箇人と国民とである。這麼人が居るか居ないかを知るには、完全に成長した人を見て、それを観察しなければならない。一言もつて云へば天性の人を知らなくてはならぬ。読者諸君が此の書を読んで下さつたら幾分かお悟りになるであらうと思ふ。

 

○然らば這麼天性の人物を養成するには何したらよからうか。まづ最初に何事でも他人から為て貰ふ習償を禁ずる事が肝腎である。それから人は銘々定つた社会上の身分があつて、其の身分相応な教育を受けなければならぬと云ふが、埃及の様に子は親の職業を継がねばならぬと云ふ国ならば兎も角、社会の階級だけは永続しながら、常に人々の職業の変動する我々の国では身分相応の教育は却つて子供の本望に逆つたやりかたである。何事でも自然の秩序から観察すると、人は皆平等で、各人共通の職業は先づ人間たる事である。吾々の真に研究しなければならぬのは人生であつて。人生の幸福と辛酸とは如何にして処すべきかを知つた人が最もよく教育されたる人と云ふべきである。だから此の目的を以て善良に教育された人は何を遣つても遣れない事はない。だから真の教育は教へるといふ事よりもむしろ訓練する事である。吾等は全局に目を注いで児童を人生のあらゆる事件に遭遇する人として育てねばならない。経験に依ると、あまやかし可愛がられて育つた子供は、さうでない子供より多く死ぬやうである。苦痛は人間の運命である。苦痛に会はせまいとして、何麼事をしても駄目である。大切なのは強健なる精神でなくてはならない。

 

○子供は生れると泣く。すると諸君は撫でたり賺したりする。然しまた嚇したり打つたりする事もある。かうして諸君は子供を喜ばせるかと思ふと、時には自分勝手な事をする。ともかくも諸君のする事は子供に従ふか、子供を従はせるか何つちかである。子供は未だ口も利けないうちに命令し、未た実行する事も出来ないのに服従させられる。時には罪なくして罰せられる事すらある。世間には這麼事で子供を偏屈者にした上で、「困つた息子が」と云つてゐる親がある。さうかと思ふと「私は忙しい。子供の相手なんぞになる隙がない」と云ふ人がある。併し親たるものの最も大切な義務は専ら子供の教育である。唯子供に食はしたり着せたるするばかりでは、どうしてもまだ親たる任務の三分の一も尽されては居ない。親たるものは人類に対して人を預り、社会に対して社会の人を預り、国家に対して其の国民を預つてゐるので。自分一個の子供ではないのである。此の三つの責任を果すことの出来ないものは罪人である。しかも此責任を半ば尽して半ば放棄するものはもつと甚しい罪人である。親たるだけの責任を果す事の出来無い者に親たるの権利はない。その故に教師たるものは立派な人で無ければならない。真に人を教育するには其の人が先づ親とならなければならないからである。凡そ親たる人が教師の如何なるものであるかを知つたら、自らその教師にならないでは居られまい。ところが茲に富有な人があつて業務多忙のため、子供の世話が到底出来ないとすればどうであらう。金を出して自分の義務を人に託してよいであらうか。斯くして託せられたる子供は果して第一義の教育を受ける事が出来ようか。どんな人か知らない、只地位ばかり分つてゐるが、私に子供の教育をやつて呉れとて頼んだ人があるが、私は其を承諾しなかつた。何故と云ふに若し私が承諾して私の考へ通りに行かなかつたら其の教育は失敗であり、若し成功した時は、其の子は爵位を棄てゝ更に公爵にならうとしないに相違ないからである。実に教育者たるの任務は重大であつて、私の様なものはとても其の器ではない。むしろ私はここに一人の児童を描写して、其誕生から成長するまでの教育法を書かうと思ふ。

 

○偖、子供を教ふる学問は人類義務の学問である。其の教師は寧ろ教育家と云ふがよい。何故かと云へば、彼は生徒に教ふるよりもまづ生徒を導くものである。貧者教育の必要はない。貧者は既に其境遇から一の教育を受けて他の教育を受ける事が出来ないからである。然し富者が境遇から受ける教育は自分にも亦社会にも其の利する処は少ない。云ふまでもなく自然教育は、人をして人生のあらゆる境遇に堪へる様にするのである。貧乏人を富者にしようとする教育は富者を貧乏人にしようとするよりも、もつと不合理である。貧窮に赴く者の数は、貧窮から身を起す者の数より多いからである。そこで私は今富者の中から一人の生徒を選んで之を教育し陶治して見ようと思ふ。

 

○それはエミイルである。エミイルは良家の小児である。私は将に偏見の犠牲とならうとするものを一人救つて見よう。

 

○エミイルは孤児である。彼に両親があらうとあるまいと其麼事は問題では無い。今や両親の義務は尽く私に託せられその権利は私が握つてゐる。エミイルが両親を敬まはなくてはならないけれ共、私の外には誰にも服従する必要はない。此れは第一の寧ろ唯一の条件である。此の他にも猶一つの条件がある。其はお互の承諾無しには決して別れまいと云ふ事である。相互に別れたいと思ひ、他人になつて仕舞ひたいと思ふ瞬間には、もう二人は既に他人になりはて、親愛の情は無くなつてゐる。

 

○私は羸弱な病身な子供を預る事は嫌ひである。さういふ病身な子供は只生きよう〳〵と努めるばかりで、其の肉体は精神教育の妨げとなるばかりである。只死なない事ばかりを考へて居るものに生くべき道を教へる必要はない。真の勇者は医者の居ない処にゐる。死といふ事の考へられない処にゐる。自然な状態にゐる人はいつも苦痛に堪へ不安に死ぬる事が出来る。人の心を凹ませて死に迷はせるのは医者と学者と坊主である。エミイルには命の危い様な場合でなければ医者を呼ばない。さうでないと反つてエミイルを殺すに過ぎないからである。

 

○子供には度々湯浴をつかはせなくてはならぬ、身体が強くなるにつれて湯の温度を低くし、夏も冬も冷永浴をやらせるのがよい。斯くして様々な温度の水や湯に堪へる様にさせて置くと外気の変化を感じない程丈夫になる。紐や襁褓で子供を緊めて手足の運動を妨げない様に、いつもゆつたりと着物を着せるのがよい。然しあまり沢山着物を着せては不可ない。寒い空気は子供を強くするけれども暖かい空気は子供を弱らせる。子供が物を見分ける様になつたら、之を与ふるものを選ばなければならない。新しい物を喜ぶのは人の天性である。然し、子供は自分の知らない物を恐るゝ感覚を持つて居る。そこで子供には新しいものを見る事に慣れさせてやりたい。始終見てゐると物の怖ろしさは消え失せる。若しエミイルを爆発の音に慣らしてやらうとするならば、先づピストルに麻屑でもつめ込んで弱く試みる。そして後には麻屑を入れないで少しの弾薬を入れ段々多くして、どんな爆声にも慣らす様にする。子供は或る逃れられないものに遭遇して不安の念を起し、他人の助力を仰がねばならぬ時は表情で之を現はす。泣くのは則ち其の所以である。斯かる涙は願である。それを心得て置かないと、願は命令となつて了ふ。子供の力が弱いために初めは人に頼まうとするが、やがて指揮命令の観念が起つて来る。斯かる観念はあまりにかしづくから起るのであつて、其の他にもかくして天性でない不道徳が屡々顕はれてくる。

 

○子供が四辺の人を自分の小使か道具の様に使ひ廻す様になると、どうにも斯うにも手が附けられなくなる。然しこれは教育の仕方が悪いのであつて、自然其の儘の権威ある心から出て来るのではない。此の原理を知つて置くと、自然の秩序を誤る事がない。左にその原理を示してみると、

 

○一、子供は余分の力を持たないばかりか、自然の要求さへ其の力で満す事は出来ないから、其の凡ての力は充分使はせた方がいい。

 

○二、子供が智慧でも力でも生理上の要求を満すに足らない時は助けてやらねばならない。

 

○三、有益な事でなければ助力してやつてはいけない。一時の出来心や、よくない要求を許してやつてはいけない。

 

○四、子供の欲求が自然か出来心であるかを知るためにその言語や、欲求の表象を研究しなければならぬ。

 

○此の法則によつて、子供の時からその欲求を力の範囲内に制限する様にして置けば、力の及ばぬ事を欲して自ら苦しむ様な事がなくなる。子供が束縛されもせず、又病気でもなく、何の要求もないのに声を長く引つ張つて泣くのは、習慣又は気儘の叫びである。此習慣を治したり防いだりする唯一の良法は泣いても知らぬ振をするのがよい。又子供が一時の出来心や気儘な心から泣くのを防ぐ他の方法は面白い珍しいものに気を向け変へさせる事である。今や世は万事質朴の風廃れて其の弊害は子供の玩具にまで及んでゐる黄金の鈴や、銀の鈴や、珊瑚や、水晶や、種々様々な玩具それらはいかに無益有害であらう。それを皆放げ棄てゝ、花ある小枝、がらがらの様な罌粟の坊主を与へたい。子供は産れた時から言葉を聞かされる、吾々は子供が言葉を解しないから話し掛ける、子供が其の音声を出して真似も出来ない時から話し掛ける。其の他、其の音声の外、何にも分らない歌を無暗に教へられる。然しまだ年に似合はぬ言葉を使はせられるのは大変よくない。世間には自ら言葉を覚ゆることの出来ない子供はあるまいのに、わざと教へねば覚えないもののやうに余り急いでいろんな事を教へ、遂に子供の発音を不明瞭にして了うやうな大弊害を生ずることが往々である。すべて言語について吾々が子供の為めに懼るゝ欠点は決して八釜しいものではなく、容易に禁止したり矯正したりする事が出来る。けれども其の音調を批評したり、其の言語をとりいだして軽侮したりして不明瞭なうろたへたおろおろ声で語る様にさせた欠点は遂に改むる事が出来ない。子供が言葉を稽古する時には只解る言葉ばかりを聞き取り、明かに発音の出来る言葉ばかりを語らせる様にさせなくてはならない。子供には唯必要なものばかりを教へてやればいい。子供が云ひかゝつて口籠る時はその云はうとする所を推測して此方から云つてやつてはならない。子供は自分の実益上人から習はなくても自ら覚えるものである。子供には出来るだけ用語の数を少なくしなければならぬ。観念以外の事を知つたり、自分の思考の及ばない事を語るのは、子供にとつて大変損な事である。小児期最初の発達は殆ど同時に起る。子供は殆ど同時に語つたり食べたり歩いたりする事を覚える、これが即ち一生の第一期である。是れ以前は生前と大差が無い感情も無ければ観念もなく、只僅かに感覚を有してゐるのみで、自己の存在をも意識してはゐないのである。

聖書物語 洪水

約物

洪水

アベル死に、カイン去つた後でアダムとイヴの間には世継のセスを始め、多くの子や孫を与へられて二人とも八百歳九百歳の齢を重ねたが、遂に元の土に帰る時は来た、アダムが死んでからも、漸々此世に人の数が増えて、胤は盆々栄えて来た、併し夫と共に世は盆々汚れて、心根良き人は次第に少なくなつて行く、狭い国に多数の人が一緒にゐるから、良い人も傍を見慣つて悪くなり、世は罪に充ちて了つた、神はつら〳〵己が創めた世のかゝる有様になつたのを見て、心の内にいたく憂ひ歎かざるを得なかつた、我霊は肉なる人と共に長しへに栄える事が出来ぬ、人の生命は愈々短くならう』と云つた。

○併し其中に極少数ながら、神の愛をうけ得られる善人もあつた。就中アダムの子、セスの末流に当るエノクは、常に神と共に歩み、神も此人とは親しく語を交す程の聖い善しい人で、三百六十五歳の時、地上から直に天界に迎へ取られ、死なずに長しへに生きる人となつた、エノクの曾孫に当る、アダムから十世の裔のノアといふ人の頃になつては此世の堕落は愈々甚しくなつた、神も『我が創造りし世の斯く汚れたる上は、世に人の胤、生物の跡を絶たう』と云つたが、此汚れたる世界にも尚神の眼に一人の善人の影が映つた、其人はノアで、傍の汚れたる行為には染まない、エノクと同じ様に、神もノアと共に歩き、語を交してゐたが、神はノアに『地の上にある男も女も鳥も獣も、生ける物を悉く打亡すべき時が来た、万人の心、行皆汚れ果てたれば我、彼等を亡し尽さう、されど爾は唯一人善心を保ち、善行を為せば、家族もろ共に救ひ取らせる、松の木にて方舟を作れ、舟は三

 

*****準備中*****

 

酷建にて、長さ三百〓ユビト、輯五十キユピト、高さ三十キユピト、星根を声き、室を装置へ瀬事

にて内外を塗つて水に尊らぬ様にし、導光窓をつけよ、我、洪水を起して、大地を悉く水の底に沈

生命ある者は皆満らせて亡し尽すから。爾は妻と七ム、ハム、ヤベテ三人の子と、子の嫁とを率ゐ〓

九に入れ、又諸種の生物は一隅つゝ、殊きて潔く、人に用ある生物は七隅づゝ、其方舟に取入れて。

生物の種子を爾と共に此世に生発らせよ』と教へた

ノアは神の教示のまゝに大きな方舟を遣り始めた、舟が成就るまでに実に百二十年の年月を要した、

其間に世の悪行は盆々募つたが、悪人共はノアが水のない土地に法外に大きな舟を造つてゐるのを〓

つてゐたであらう、遂に方舟が成ると、神はノアに家族を連れて舟の中へ入らせ、生物の匹〓も神が

誤んで中へ入れて閉〓て了つた、此時ノアは六百蔵であつた

神は、天を師けて大雨を降らせ始めた、四十日四十夜の間降り続ける、流は漲り、河は泣れ、水書

は見る??増えて地上に魂つた、今、方舟は水に浮び出した、人々は〓に上る、岡は忽ちに水に裂は

れて了ふ、人々は高山の頂上に上る、洪水は又高山の頂上をも越えて、悪しき人、汚れたる人は忍く

浜れ死んだ、地に住む職は、牛も犬も虎も獅子も皆満れ死んだ、空飛ぶ鳥さへ恐ろしい山風の中に

売休める〓を失つて薄れ死んだ、雨が降止んだ時には方舟の外は唯漫々たる水ばかり、息あるものは

無くなつてゐた。

四十日の後師は出んでも水は退かぬ、百五十日余も方舟は水の上に浮んでるたが、やがて神は水

退かせ始めた、山々の頂上が見八、峰が現れて来る、方舟はやがて底をアララテ山につけた。

ノアは舟が動かなくなつたので水が退いたのであらうと思つて窓を開いたが、未だ僅かに高い山々

の頂、が見えるだけで、平地は一面の水が漲つてゐる様子なので、試みに磐を故して見た、鶏は売が

強いので彼方此方と翔け廻つて水が全く退いて了ふまで帰らなかつた、次に鳩を放したが〓を休める

処がないので直に帰つて来た、七日待つて又塲を故すと、其日の夕方に飛帰つた、見ると其〓に極

体の若葉を衝へてゐる、水は大分減いた事が知れる、又七日待つて三度樽を放すと今度は帰つて来な

い、今は既水は乾き切つたと知つた、ノアは方舟の屋根を開いて眺めると地は前の如くに乾いてるた、

〓時、薄5『舟から出でよ』と云はれた、ノアは家族、及び諸種の生物と共に舟を出たが、世を挙け

て悉く亡ほし尽された中に、唯此家族だけに慈愛を垂れ給はつた事を神に厚く謝せねばならぬ、で、

祭壇を建てゝ供物を捧け、己が身、己が家族は凡て神に捧けて、神の御意のまゝを行はんと新つた。

神はノアの此祝書をいたく喜ばれて、『この後は此世、如何に〓く汚れ行かうとも、再度人々を打ち

〓ずことはせぬ、事び洪水を泣らせて地を咀ふことはせぬ、今から播種、収穫、春夏秋冬の時候の変

ることもなくせう、地は再度一隅づゝの生物から増藩ろう、是等は皆爾に与へて、爾を地の主、諸種

の害物の支配者とせう、我又虹を天と雲の上にかけて、是を爾と爾の子、且は爾等の血の裔までも契

〓の徐とぜう、如が出たら、我が此世と世の人、生物の事とを胸に想うて、再度世を亡すことはない

と悟れ、虹は此契約を忘れぬ為の微だ』と誓はれた。