聖書物語 楽園

約物

楽園

○今吾人の住んでゐる此地球は、余つ程古い年数を経たもので、誰も、何時頃造られたか知る事が出来ない程である、併し、此地球も日も月も星も、何もない時には唯、始なく終なく永刧の昔から永劫の末まで常時在さぬことのない神が在るだけであつた。ずつと大昔に、混沌とした空虚の中から天地が此神の声の下に出来た、併し、今の様に美しい山も川も海も谷もなく、樹木も育たぬ、花も咲かぬ、唯、土や水が混淆に塊つて、ふす〳〵と煙の立つ大きな団塊であつた、そして大地は、その上に照る光が無いから夜中の闇より尚暗く、人も住まず、獣もゐず、真黒な水には浮ぶ魚さへない、生物とては毫末もなかつた、唯、神の霊だけが此上に在る。

○『光あれよ』と暗い、暗い闇の中から神の声がして、始めて此世に光明が出た、闇は逃げて一所に集つた、その暗い間を夜と名づけ、光明のある間を昼と云つた、恰当今日と同じ事である、是が抑も最初の第一日である。

○神の声に従れて、地の周囲の暗い雲が破れ、水が分れて上は昇つて青空となり、下は地に留つた、此青空を天と呼んで第二の一日は去つた。

○神は『地の上なる水は一所に洽りて乾きたる土出でよ』と云ふと、其如く成つた、治つた水を海と呼び、乾いた土を陸と名づけた、神は海と陸とを見て『善し』と思つたが、更に又『陸には草木生ひ出で、花咲き、果実れよ』と云ふがまゝに、草木緑に萌え、花美しく咲き出で、果実が豊かに実つた、これが第三日目である。

○次には昼夜の区別、月日を定める標に、昼には太陽、夜には太陰、星宿を天に輝き出さしめた、これが第四日目である。

○次の第五日目には『海には游ぐ物、陸には飛ぶ物、生命あるもの数多成れよ』と、神の声に応じて、海には大小の魚、陸には天地の間に飛翔る鳥が出来た、更に『陸の上に這ひ歩く生物出でよ』とて、大きなる獣、小き獣を作出で『爾曹殖え繁りて栄えよ』と祝うた。

○今地球は稍美しく整うて来た、緑の野辺に花咲く木陰、鳥は楽しげに囀り、種々の獣は森の木間に戯れてゐるが、まだ此美しい天地に一つ物足りない気がするので、神は『他の生物とは異つて、我に似た俤の人間を作らう、人間を海の魚、空の鳥、地に住む有とあらゆる生物の主となさう』と云つて、地の土を取上げ、神の姿に似せて人の形を作り、生命の息を吹込んだ、茲に最初の人は生れ出で、地の上に立つた。

○神は此人間に『殖え繁つて栄え行けよ、見よ万物は爾の物だ、穀物、果実、皆爾の糧に与へる、生命ある物をも爾の意のまゝに治め行けよ』と祝福の語を授け、さてこれを創世の業の最後の華と、六日目を終つて、七日目を安息の日として後世までも安息日として涜す勿れと掟を定められた。

○今は此地球は美しく整うて来た、神は最初の人間に、土から出たといふ意味でアダムと名づけ、美しい園を作つて其住家とした、エデンの園といつて、花は見るに美しく果は食ふに甘い木を撰んで植ゑ、園の中央には生命の木、善悪の分別の木といふがある、地を潤すにはビソン、ギホン、ヒデケル、ユフラテの四の川が一の源から四方へ流れ出る、園の広域は幾何里あるとも知れぬ許り、一体、聖書の中の園といふ字はパラダイス(極楽)と同じ意味である、其園守にアダムを置いて、中の果実や草木は思ふがまゝに摘み取らせ、それで生命を繋いで行く事にさせた、かくて神が作つた生物を皆其園の内に連れて来て一々アダムに其名をつけさせた、かくてエデンの園は薬しく快い住所となつて、草木は繁り鳥獣は遊ぶ、アダムは家も小舎も身を隠す衣も要らぬ、凡てが清く美しい潔いのである。

○アダムは此美しい園に唯一人で住んでゐたが、神は『人間は唯一人なるは宜しくない、共にあつて助くる者を作らう』とアダムを眠らせて、アダムの肋の骨を取つて一人の女を作つた、名をイヴと呼んで、アダムの妻とした、妻は夫の骨の骨、肉の肉、同身一体のものである、アダムもイヴも、神の俤に似て美しい心を有ち、互に睦まじく、神を父と愛して眼前に語を交した、二人は悲哀も苦痛も恐怖も覚えぬ、唯神に愛せられて神の命令に従ふ許り、かくて長く長く此楽園に、罪に汚れぬ生涯を送るべきであつた。

○茲に一箇神の誡言があつた、『園にある木の実は爾の取るに任すが、唯、中央に生ひたる木の果には手も触れるな、食へば立所に死ぬるぞ』といふのである、アダムもイヴに向ひ常々此誡言を心に留めよと云つてゐた。

○然るに此園の中に、姿も心も拗けた悪い蛇がゐる、此蛇がイヴに向ひ『神が此園に結りたる果実の中にて、食ふを禁ぜしものがあるか?』と問ふ、イヴ『園の中の果実は心のまゝに取つてもよいが、唯中央にある木の実だけは、食はゞ必らず死ぬと戒められた』、蛇『否々、汝決して死ぬ事はない、彼果実は食はゞ爾等神よりも賢くなつて、善悪の分別が明かになるのを知つて、神はかく誡めたのだ』と囁いた。

○イヴはかう囁かれて、さてその樹を見、果実を見ると、さも甘さうに色づいてゐる、真実に賢くなれるものならば、神の誠言を背いてまでも食うて見たい気がして、遂々果実を挘取つて自分で食ひ、今一個はアダムに与へた、アダムも夫を食つた

○二人は神の誠言に従はなかつたのを悪い事と思つたので、今までになく、始めて神に顔を合すのを怖れ出した、そして深く木間に隠れて神の眼を避けやうとした、併し、神が『アダム何処に在るか?』と呼ぶので『主よ、私は主の声を聞いてゐますが、裸体だから、怖れて隠れてゐます』と答へた、神『誰が爾に裸体だと告けたか、さては爾は手も触るゝなと命じ置いた禁制の果実を食ひたるか?』、アダム『共に在れと私に賜ふた此女が、果実を私に呉れたので食ひました』、神はイヴに『爾は何故かゝる事をしたか』、イヴ『蛇が私に勧めたので食ひました』といふ。

○神は蛇に『爾、アダム、イヴを悪事に導きたれば、今は他の生物の如く歩むことはならぬ、長しへに腹にて這ひ、塵と土とを餌とせよ、又爾と女とは長しへに敵となり、女も爾の頭を砕けば、爾も又女もろ共、女の子孫までも讐と狙へ、(女の方に向ひ)爾も夫を我に背かせたれば、女の生命のあらん限り、悲哀と苦痛と心遣とは絶間もなからう、(アダムには)爾も妻の語を聞いて我の誠言に背きたれば、爾も罰せらる、今よりは土地より生出づる物を取るために苦労せよ、土地には荊棘の生繁るを見やう、爾食を求むるには、生命あらん限りその土地を耕し、種を播き穀を刈り、額に汗を流して働かねばならぬ、かくて、やがては爾の身の原由たる土塊に帰るであらう』

○神の掟に背いた罪で、アダム、イヴは最早エデンの楽園に娯しい生涯を送る事の出来ぬ身となり、其処を逐ひ出された、かくて神は二人が再び楽園に帰来る事のない様に、園の門に炎の剣を持つた天使ケルビムを立たせて番をさせた、アダム、イヴが楽園から此世界に追ひ出されて額に汗して働く様になつてからこの方、まだ誰も其園に入る事を許されぬ。